幸村の怪我は快方へと向かっていた。ねねが率先して幸村を布団に押し留める日が続いたせいもあるだろう。ねねは我が子のように幸村に接していた。幸村は、きっとこの怪我が治ったらねねは一緒に城下へ行こうと言い出すのだと分かっていたが、その好意を戸惑いながらも受け取っていた。父にはよく可愛がられていた幸村だが、母との思い出はそう多くはない。男に混じって鍛錬をする幸村を避けていた節があった。母は公家の出であったから、いっそう幸村を理解できなかったに違いない。ねねは大坂の母である。幸村も次第にその情を受けるようになった。
そんなある日である。幸村は未だ病床から抜け出せずに居たが、丁度大坂へと滞在していた兼続が訪ねていた。慶次もまたしても酒をぶら下げて、幸村の屋敷へひょっこり顔を出していた。流石にまだ酒を呑むわけにはいかず、幸村は兼続が持参した団子で酒への未練を誤魔化していた。幸村の好みを知っている兼続である、すぐに幸村の意識は団子へと移された。
他愛のない話の合間に、兼続はさり気なく、好きな男は出来たか?女子であることを自覚したか?とさも楽しげに訊ねてくるが、幸村はそれをのらりくらりとかわしている。今はそういったことを考えたくはなかった。慶次はそのやり取りが余程面白いのか、大口を開けて笑っている。兼続を応援する気もなければ、幸村に加勢をする気もないのだろう。幸村はうらめしそうに慶次を見たが、慶次はその視線すら笑い飛ばして、幸村の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「こらっ慶次!不埒だぞ!」
と兼続は咎めるが、慶次も幸村も笑っている。
「私と慶次どのの仲ですから、良いのですよ。」
幸村がそう言えば、それを冗談だと分かっている慶次が
「そりゃそうだ!」
と膝を叩く。場の空気は明るかった。
兼続はそんな会話の途中に、ふとその言葉を吐いた。幸村は兼続のたった一つの言葉に、表情を失くしてしまった。
「三成は見舞いに来たか?」
兼続は言ってしまってから、己の迂闊さを悟ったのだろう。俯いてしまった幸村の手を握り、
「まったく三成も不義だ、ああ不義だとも!」
と高らかに叫んだ。
その時である。障子の向こうから、家の者が声をかけた。何やら文が届いているらしい。幸村は場の空気を誤魔化すように腰を上げ、僅かにすき間を開け文を受け取った。障子を開けた瞬間、ふわりと鼻をかすめた香りは、はて、何の花の匂いであったか。
「これは、どちら様から?」
「はい。石田さまの侍女から、受け取りましたものでございます。」
三成から贈り物なり文なり届く場合は、大抵本人が持ってくるし、そうでない場合は左近がその使者として遣われることが多い。このような回りくどいことを好まぬ人ゆえ、幸村も少しだけ首を捻った。だが、三成からの文である。まだ文を送る程度の関心を自分に抱いてくれていると思うと、幸村も少しだけほっとした。
幸村は丁寧な手付きで紐を解き、文を開いた。見慣れた三成の字であったが、内容はおおよそ今までに見たことのないものであった。今まで匂っていた花の香がいっそう芳しく香った。文には短い言葉が綴られており、添えるように純白の花びらが数枚、包まれていた。
量からしても大した長さではない。それを読むのに時間のかかっている幸村を不審に思ったのだろう。兼続が、
「どうかしたのか?三成はなんと?」
と身を乗り出した。手紙の中身を覗くような無粋な人ではないが、幸村は思わず隠すように胸に抱いた。その拍子に、悪戯な風に乗せられ、花びらがひらひらと宙を舞った。
「梔子かい?こりゃまた、愛されたもんだねぇ!!」
慶次はやはり楽しそうに膝を叩いて喜んでいる。幸村は慶次の言葉を理解できなければ、手紙に書かれた一節も理解できなかった。ただ一節、歌が書かれていたのだ。
(…どういう、意味だろう。)
歌の意味を指しているのではない。歌を送った三成の心情である。ねねも左近も、口を揃えて三成は怒ってなどいない、と言うが、幸村はやはり怒っているのでは、と思わずにはいられない。そう思い続けていた時分にこの手紙である。三成の心情が全く分からなかった。今まで歌など貰ったことなどないせいかもしれぬ。
「それで、三成からの手紙はどうだったのだ?いつここを訪ねて参る?」
「いえ、そのことは何も…。」
歌が書いてあるだけなのです。
そう言おうとした幸村を、烏の鳴き声が遮った。真田忍びの一人に獣や鳥など、生き物を操ることに長けている者がいるが、その者の仕業であった。約束の合間に幸村の許へと訪ねていた兼続たちに、刻限を知らせるための合図であった。兼続もそのことは承知している。幸村のことを気にしながらも、急いで腰を上げた。慶次も兼続に倣い立ち上がる。幸村は二人が去っていく様子を眺めていたが、ふらりと慶次が振り返り、一言だけ告げた。
「女になりゃあ、きっと三成の言葉も理解できるさ。お前さんは、いい加減自分を改めないといけないねぇ。」
幸村は慶次の言葉が理解できず、小首をかしてげ二人を見送ったのだった。
しばらくぼんやりと庭を眺めていた幸村であったが、聞き慣れた足音に背筋を伸ばした。幸村の屋敷へ庭から訪ねる人物など、一人しかいない。慌てて手にしていた文を背中に隠した。散らばった花弁も、急いで文の間に挟む。
「左近どの、どうなさったのですか?」
左近は兼続、慶次が来訪していたことを知って、庭から幸村の部屋へと回ったらしい。女子の屋敷へ家の者も通さずの来訪は、決して歓迎できたものではないが、幸村にしてみればどうということはなかった。武田の頃はよくそうやって行き来したものである。特別に仲が良いというわけではなく、最早慣れであった。
「殿との約束を引っさげてきましたよ。怪我が治ったら、一度殿の部屋へ行ってみるといい。そうすりゃ、殿が怒ってないことは分かるだろう。」
左近は三成との会話については何一つ触れない。嫁にする云々は本人の口から伝えるべきであるからだ。もしくは、左近の中に、僅かなりにも抵抗があったかもしれぬ。目の前の女子は、本来己の嫁になる者だった。そう思えば、少しの嫉妬もあるだろう。だが、左近は顔色一つ変えなかった。
ふわり、と風が通り抜けた。左近は鼻を鳴らす。匂いたつこの香りは、先日左近が指摘したものである。
「あんたの屋敷に、梔子は咲いてたか?」
幸村は三成の手紙の意味が分かっていない。
「三成どのから頂いた文に、添えてありました。」
と、素直にそう答える。幸村の返答に顔を曇らせたのは左近である。幸村を娶ると言った手前、三成が幸村に何かしらの感情を抱いていることは確かであろう。左近の目からしても、三成が幸村にかける想いは他人へのそれとは違う。大切に思っていることは確かであろうが、まさか、本当に幸村に恋をしているのか。律儀な主である。怪我を負わせたその侘び、と言うには幸村に失礼だろうが、そう言ってしまっても違いないことをしようとしている三成が、まさかこんなにも情を見せるとは。左近の心中は複雑であった。もしかしたら夫婦になっていたやも知れぬ二人である。左近はそれを今までその言葉の通り受け止めてきたつもりだ。別段、三成を羨ましく思っているわけではない。二人にはまだ恋だ愛だのといった感情は芽生えていなかった。少なくとも、左近はそうであった。けれど、好感は持っていた。大切にしたい、守ってやりたいと、左近なりに己に誓ったものである。だが、それも昔の話だ。左近がどう思っていようが、幸村がどういった想いを抱いていようが、今では関係のない話である。
(複雑なもんだ。)
そう思いはしたが、左近も策士である。表情に現したりなどはせぬ。
「けれど、私にはとんと理解ができませぬ。左近どのは何か聞いておりますか?よければ教えて頂きたいのですが?」
他人の仲に首を突っ込む程、左近は野暮ではない。また、よからぬ誤解を与えてしまっては、三成の鉄槌がおそろしい。左近は肩をすくめながら、
「それこそ殿に訊いてくれ。俺も、そこまでお人よしじゃないんでね。」
余計に頭の上に疑問符が浮かぶ幸村であったが、左近はそんな幸村に構わず、この日はさっさと帰ってしまった。幸村は左近らしくない様子にも首をかしげていたが、風が吹く度に梔子の香が幸村の鼻腔をくすぐり、なんとも穏やかな気分になったのだった。