ようやく幸村の怪我も治った。未だ傷痕は残っているものの、鍛錬するには問題ないだろうとねねの許しも出ていた。ねねは去り際に、
『今度一緒に町へ行こうね。』
と言い残していった。そのことを思えば多少気が重かったが、とりあえず今日明日のことではない。久々に槍を掴み、幸村は気の済むまで身体を動かしていた。
午前をそうして過ごした幸村だが、汗を流し昼餉を済ませた幸村が、午後に一番に起こした行動といえば、三成の屋敷へと行くことであった。今日のことは連絡していなかったが、左近からいつでもいいと聞いていた幸村は、とりあえず足を向けた。断られるにしても、次の約束は出来るだろう。屋敷へと赴く際、久しぶりにたくさんの人と顔を合わせた。皆、一様に幸村の様子を心配していたようで、顔を見知っている者は幸村に駆け寄る程である。幸村はその声がかかる度に丁寧に礼をして、ご心配をおかけしました。ありがとうございます。と笑顔で対応している。秀吉の粋なはからいであろう。幸村の性別は伏せられているようであった。
石田屋敷に着き、侍女に取り次ぎを頼めば、すぐさま奥に通された。三成は出掛けているようだが、同じように訪問した兼続がいるから一緒に待っていてくれ、とのことであった。
部屋には確かに兼続が居たが、その光景を見た幸村は、一瞬、ここは兼続の部屋であっただろうか、と思った程である。兼続は、幸村がそう錯覚する程くつろいでいたのだ。兼続の様子を呆然と見つめていた幸村だが、すぐに兼続は幸村に気付き、
「ここにお座り。」
と兼続が寝転がっている隣りを叩いた。幸村は誘われるがままに、部屋へと足を踏み入れた。
「三成はもうしばらくしたら帰ってくるそうだ。あいつは何がそんなに忙しいんだと思う程、仕事を見つけるのがうまい奴だからな。いつ来てもこんな扱いだ。」
「三成どのが仕事熱心なのは有名な話でございますれば。素晴らしいことだと思います。」
「だが、あまりに熱心すぎて、我らを放っておくのも不義だろう。十分に語らい親睦を深めることで、我らの絆も愛も深まっていくというものだ。まったく、不義甚だしい!」
「兼続どのらしい。三成どのに構ってもらえず、そんなに寂しいのですか?」
兼続と幸村の仲である。兼続の想いを幸村は当然のことのように口にした。幸村が微笑めば、兼続はがばりと身体を起こした。幸村から兼続の顔は見えなかったが、きっと唇を尖らせているに違いない。
「ああ寂しいとも!三成はいつまで経ってもああだし、お前も最近は素っ気無いではないか。恋をしているのなら、私に相談してくれればいいものを!」
前半は微笑ましいことだ、と思いながら聞いていた幸村も、自分に矛先を向けられ目を見開いた。兼続は己が恋をしているのだと言う。相手は誰だ。そう彼に問いたかった。だが、幸村はそんなことよりも、己が恋をしているのだと兼続に思われている事実に、ひどく戸惑いを覚えていた。己の煮えきらぬ態度が、恋をしていると錯覚させているのだとしたら、それは改めねばらなぬことだと思ったからだ。何より、女々しいことを嫌う幸村である。
「恋など…。兼続どのは何か勘違いをしていらっしゃるのでは?」
「勘違いではないぞ。いつぞやの島どのとの逢瀬はどうであった?いつぞやの三成からの文は何だった?お前には問い質さねばならぬことがたくさんあるからなあ!」
兼続につかまったら最後である。根掘り葉掘り訊かれるのは必定。すぐさま否定すればよかったのだが、幸村自身答えに戸惑っていたのである。しどろもどろに返答すれば、兼続の不信感は否が応にも高まった。
「ほらほら幸村、白状してしまえ!私を除け者にするなど、それこそ不義だぞ!」
「そ、そんな、兼続どのが思ってみえることなど、何一つありませんよ。」
「そのような答えで私が満足すると思っているのか!お前も相当に頑固者だな!それにねね殿に聞いているぞ!お前のその志は確かに見事だ、素晴らしいことだ!実に義溢れた姿だ!だがな、過去をいつまでも抱えていては、お前は幸せにはなれぬよ。」
こう見えて、何故だか兼続とねねは仲が良い。本人には悪いが、他人の話をあまり聞かぬ所が合うのかもしれぬ。もしくは、思考の行き先が似通っているのか。ねねも、幸村に近しい兼続には、うっかりとこぼしてしまったのかもしれぬ。幸村はそれをどうと思うことはなかったが、やはり曲解して伝わっていることに辟易した。操を立てる以前の話であるからだ。誤解を解きたかったが、兼続はすっかり信じ込んでいるようで、その間違いを正すには少々骨が折れるだろう。
「お前には悪いが、当に時効であろう。婚約者を思ってのことであろうが、その者ももういないのだぞ。お前がいつまでも独り身では、その者も浮かばれぬよ。そろそろ、ちゃんと考えてみてはどうだ?」
真剣な様子の兼続に迫られ、流石に幸村も仰け反った。左近どのはまだ生きてます、とそこだけでも反論したかったが、この調子で彼にそれを告げれば、何やら後々が恐ろしかった。左近には悪いが、ここはそういうことにしておく方がいいだろう。幸村は言葉を探して視線をさ迷わせた。その合間にも兼続の口は止まらない。
「その者のことが余程大切だったのだろう、愛していたのだろう!それは十分、お前の様子から分かるぞ!うむ、実に素晴らしきことだ!だがな、幸村。ちゃんと現実を見なさい。三成も島どのも嫌だと言うのであれば、不肖この直江兼続、お前を娶る覚悟は随分と前から出来ているぞ!」
誤解甚だしいです!幸村はそう叫びたかったが、兼続のあまりに真摯な様子に気圧されていた。大切だ、愛していたなど、幸村は思ったことがなかった。考えるだけで頬が熱くなる。兼続の言を鵜呑みにすれば、今も幸村は左近のことを未練がましく想っているということである。ああ、なんてこと!幸村は羞恥で頬を赤くした。しかし兼続にから見れば、それは過去の憧憬を今も変わらず抱えているようにしか映らぬだろう。幸村はますます返答に困った。
どうすべきか、視線どころか手振りすらもあたふたとしていた幸村に、救いの声がかかった。三成が帰ってきたのだ。会話に集中していたので気付かなかったが、確かに襖の向こうには三成の気配があった。
「入るぞ。」
「あ、はい。」
三成は無愛想にそう言い、襖を開けた。家の者から聞いていただろうに、兼続がその場に居たことに眉を寄せた。兼続を煩わしく思っているのではなく、兼続と議論を交わせば知らぬ間に刻が過ぎてしまうことが嫌なのだ。三成は視線で、お前はさっさと去ね、と訴えれば、肩をすくめて兼続も立ち上がった。この場は幸村に譲ろうということなのだろう。幸村は去っていく兼続に軽く頭を下げ、彼の退室を見送った。