兼続の足音が遠ざかってから、ようやく三成は腰を下ろした。幸村は正面に座る彼を直視出来ず、思わずがばりと頭を下げた。
「此度は申し訳ありませんでした!」
「風魔のことか?それならば、お前の過失というよりは、こちらの不手際だろう。お前が謝るようなことはない。」
言外にさっさと顔を上げろ、と言うが、幸村はやはり頭を下げたままである。三成の眉間の皺が更に一本追加された。
「三成どのに隠し事をしておりました。」
「それこそ謝る必要はない。むしろ、俺が謝らねばならん。気遣い一つできぬ男だ。すまんな。」
「そんな!勿体のうございます!私は三成どのを騙して、」
「騙されたと思ってはいない。だから、お前はそろそろ顔を上げろ。久々に会ったのだ、そのように伏していては何の為か分からん。」
幸村はゆっくりと顔を上げた。三成の不機嫌そうな顔が、少しだけ微笑した。本当にこの方は怒っていないのだ、と幸村は胸を撫で下ろした。だが、すぐに表情を引き締め、
「ですが、黙っていたことは事実です。申し訳ありませんでした。」
「お前の気がそれで済むのなら、その謝罪は受けよう。だが、これからはあまり心ノ臓に悪い秘め事はやめてくれ。」
三成の本心はまさにその一言であった。嘘を吐いていたとか、騙されていた、とかそんなことは大したことではない。だが、男だと思い友情を育んでいた手前、その事実は心底驚かされた。不思議と不快ではなかったが、その分驚きが大きかった。
「幸村。」
一頻り笑い合った後、三成は真剣な声で幸村の名を呼んだ。幸村は、
「はい。」
と返事をし、背筋を伸ばした。三成の鋭い眼光が、幸村をじっと見つめる。開け放たれた障子からそよそよと風が吹く度に、先日と同じ、梔子の香が匂った。三成の庭に咲いているものである。幸村はあの手紙に込められた意味を訊きたかったが、それを問う雰囲気ではなかった。三成がゆっくりと口を開いた。
「お前を、娶りたいと思う。」
幸村は目を見開いて、その言葉を聞いた。どういう意味だろう、どういう意図だろう。何があって彼はそんな。ぐるりと視界が回った。まさか、三成の口からそのようなことが飛び出すなど、予想すらしていなかった。左近や兼続がちらりとそれらしいことを口走っても、特に気にとめなかった幸村である。晴天の霹靂以外の何ものでもなかった。
「それは、どういった意味で、ですか?」
「告げたままだ。お前を嫁にしたい。それだけだ。」
三成は真っ直ぐに幸村を見つめている。弟のように幸村のことを想っていた三成である。幸村もそれを感じ取っていた。幸村は兄のように三成を慕っていた。三成もまた、弟のように幸村を好いていた。それは今も変わらぬ。女子と知ったところで、数年を共に過ごした事実は変わらぬ。兄弟のように互いを尊重し合っている事実は、変えることができぬ。三成は、以前と何ら変わらぬ視線で幸村を見つめている。幸村は、三成の心を悟った。
「あなたは優しい。あなたに愛される方は幸せでしょう。」
「なれば幸村、」
三成が膝を乗り出した。
「けれど、」
幸村は首を振った。三成の言葉は本心であろう、裏も何もないだろう。だが、それは彼が優しいからこその言葉であった。責任を感じているのだと、幸村はすぐに察した。
「固辞させて頂きます。あなたの言葉は同情です。多分、それでよかったのでしょう。私以外の女子であったのであれば、その言葉は正しかったでしょう。されど私は、あなたに責任を転嫁して喜ぶ女子ではなかったのです。」
不快な思いをさせてしまっただろうか。折角の好意に何てことを、とそう思われるだろうか。幸村は、けれど三成の目を真っ直ぐに見据えた。それが幸村の生き方であった。女子であろうとも、人であった。誇り高い真田幸村という一人の人でありたかった。
先に口を開いたのは三成であった。口許を緩めて、僅かに笑った。
「お前は、強情だ。」
「可愛げがなく、本当にすいません。」
「よい。それがお前だ。お前らしくて俺は好きだ。」
三成の口はいつにも増して饒舌であった。幸村は恐縮してしまった。三成の視線を凛と跳ね返した女子が、今は居心地が悪そうにかしこまっているのが余程面白かったのか、三成は声を立てて笑った。珍しいことであったが、三成の笑い声を知らぬ幸村ではない。自然と緊張も緩んだ。
「やはり、好いた男と添い遂げたかったか。」
「聞いて、いましたので?」
「兼続に問い詰められ、余程余裕がなかったと見える。俺が戻っても、お前は気付かなかった。」
「お、お恥ずかしい限りで…、」
幸村は兼続との会話での羞恥が再び戻ってきた。
「お前の様子からして、相当の惚れ込んでいたのだな。やはり、同情では嫌か。その者と添い遂げたいと、今も思っているのか?それ程までに、お前はその者を慕っていたのだな。」
スッと、頭の中が真っ暗になる思いであった。彼らが言う幸村が"恋い慕っていた"相手というのは、左近のことである。幸村は違うと思った。恋などしていない。愛など、芽生える前の話であった。添い遂げるなど、そのようなことすら考えたことはない。けれど、それならば何故先程、三成の話を受けなかったのか。親しい仲である。兄、弟と思っているが、異性として接すればもしや情愛が生まれるかもしれぬ。褥を共にし子を成せば、二人はそういった関係になっただろう。だが、幸村はその先を考えるよりも早く、首を振ってしまった。それではいかぬ、と思ったからだ。ならば、何故、昔の自分は、愛や恋と言った言葉と無縁であった相手と一緒になることを、何の抵抗もなく受け入れていたのか。答えは簡単であった。だが、今更のようでもあり、幸村はその答えに戸惑うことしかできなかった。
(私は、左近どのを慕っていたのか…。)
気付いたその瞬間に、失恋しているようなものだ。三成との縁談を、冗談とは言え口にした左近に、何の期待が出来よう。いや、自分たちの縁は既に切れているのだ。武田が滅亡したように、自分たちには僅かな縁があった程度、既に終わっているのだ。悲しくもあった、苦しくもあった。だが何よりも、何故今になってそんなことに気付いてしまったのか。それが一番にうらめしかった。
突然に黙り込んでしまった幸村を不審に思ったのだろう。三成が幸村の名を呼んだ。幸村は応えることが出来なかった。今口を開いたら泣き出してしまいそうだったからだ。幸村の表情が暗くなったことを敏感に感じ取った三成は、次第に落ち着きをなくした。他人を不快にさせる、と自覚している三成である。幸村にまでそんな想いをさせてしまったと思ったのだ。いつもならば、そこで幸村が気付き否定するのだが、今回はそんな余裕はなかった。慌てた声で三成が再び幸村の名を呼べば、小さく鼻をすすりながら、
「…すいません、」
と幸村は今にも泣き出しそうな声を発した。驚いたのは三成である。このような弱った幸村などついぞ見たことがない。幸村は女子である、と今更ながら感じ入った。女子とは、時に己の中の激情の行き場を失い、感極まって泣き出してしまう生き物である。三成はどう接していいのか分からず、手を空中で行ったり来たりさせていた。触れてもいいだろうか、どのような言葉をかけたらいいだろうか。肩に手を置いて幸村を驚かせたりはしないだろうか、迂闊に口を開いて幸村を傷つけたりはしないだろうか。
「、ひとりに、」
幸村は先程の弱弱しい声で、小さく呟いた。三成は咄嗟に何を言われたのか分からなかったが、一人にして欲しいのだと悟り、慌てて立ち上がった。
「お、俺はしばらく戻って来ぬ。その間に帰ってもよい。気が済むまでここに居ても構わん。家の者には近付かぬよう言っておこう。」
口早に言うや、やはり慌てた様子で襖を開けた。幸村は己の様子に三成が狼狽していることを分かっていたが、繕うことすらできなかった。今は涙が流れぬよう、必死にこらえることで精一杯であったからだ。
どれほど時が経っただろうか。幸村の感情もようやく落ち着きを取り戻していた。
(屋敷に戻って、泣いて寝てしまおう。そうすれば、きっとすぐに忘れられるだろう。左近どのとの関係すら忘れていたのだ。こんな、自分ですら気付いていなかった感情など、すぐに忘れられる。)
幸村は立ち上がった。ふらりと身体が揺れた。長い間蹲っていたせいだと思いたかったが、月もののせいであると気付いていた。三成の屋敷の廊下を歩いても、女中の一人としていなかった。三成が気を利かせているのだろう。幸村は途端、三成に申し訳ないことをしてしまったと思った。謝罪に来たはずが、謝ることばかりが増えていくような気がしたのだ。
幸村はみじめな思いで曲がり角を折れた。自分でもどうかしていたのだろう、人の気配に全く気付かなかった。
「おや、殿との話は終わったのか?」
今一番会いたくない人物と鉢合わせしてしまった。幸村はすぐには思考が追いつかず、茫然と左近を見上げた。
「それで、返事はどのように?」
カッと頭に血がのぼるのを感じた。幸村はすぐに顔を伏せた。左近の顔など見てはいられない。
この男は、三成がどのような話をする為に現れたのか、知っていたのだ。幸村はこの激情を目の前の男に当たっていいものか、泣いて縋ればいいのか、分からなくなってしまった。ただ、確信したことと言えば、幸村が抱えていたような慕情を、左近は欠片として持っていなかったということだ。幸村はその事実に絶望し、そして絶望している女々しい自分を嫌悪した。結局、己は女子であったのだ。
「お断り、致しました。」
幸村は素っ気無く言い放ち、足早に廊下を歩く。
「失礼します。」
と早口で告げ、幸村は左近を見ぬままに去っていった。左近の表情がどのように変化するのか、変化せぬのか、それを見るのがこわかったのだ。自分はこんなにも女々しかっただろうか。女子であっただろうか。幸村は己の屋敷へ戻る道、何度も何度も己に問ったのだった。