月日が流れるのは早い。朝鮮出兵、秀吉の逝去、三成の蟄居、矢のように物事が過ぎていった。
秀吉の突然の死には、人々が戸惑うばかりであった。朝鮮には未だ軍が派遣されたままであった為とされていたが、それを差し引いても、何事も豪華絢爛を好んだ秀吉とは思えぬ程質素な葬儀であった。葬儀の一切はねねが全て取り仕切っており、三成の介入する隙すらなかった。諸将どころか、豊臣恩顧の者達も、秀吉の死に顔を見てはいない。突然の天下人の死は、皆に暗い影を落としていた。
更に、石田三成の屋敷が突如襲撃されるという事件が起こった。誰もが加藤清正、福島正則らを扇動したは家康だと悟っていたが、その権力ゆえ、誰も口出しが出来なかった。唯一家康の強引なやり方に意見していた三成だったが、この事件でその権威も地に落ちた。徳川の天下は目前であった。
三成が大坂を去った今も、幸村は宛がわれた屋敷で暮らしている。幸村は大坂の様子を、三成、兼続らに伝えることを使命としていた。三成は佐和山で戦の支度を秘密裏に進めている。また、兼続はいつ徳川が攻め寄せてもよいように、こちらも戦に備えていた。まだ戦略は煮詰まっていない。大坂の状況を彼らに伝えるのは、とても重要な役割であった。
文のやり取りは出来るだけ避け、互いに人を行き来させることに決まっていた。上杉家、真田家は長年仕えている熟練の忍びが多い。彼らが窓口になることは当然であったが、石田家にはそれがない。自然、三成の信頼厚い左近がその役目を負っていた。
幸村は三成の屋敷を訪ねて以来、まともに左近と顔を合わせられなかった。今更左近に告げる想いではないと分かっていたが、口を開けば何が飛び出すのか幸村自身分からなかったからだ。そして、己の激情をぶつけた後の左近の心中を思えばこそ、やはり何も言わぬ方がよいと幸村は答えを出していた。左近はおそらく幸村を責めぬだろう。どれ程理不尽なことを彼にぶつけても、決して幸村を怒らず咎めず、俺が悪かった、すまない、と、そればかりを言うのだろう。幸村は左近の謝罪こそ不要である。己がただの女に成り下がることが、何よりも恐ろしかった。左近に責はない、己にもまた、それがない。ただただ、縁がなかったのだ、二人には結びつくだけの絆がなかったのだ。そう思っていたかった。故に、幸村は何も言わなかった。けれどもそれは理性が働く下での結論であり、左近を目の前にどんな感情が溢れ出すか分からなかった。幸村は感情のまま、左近に女の癇癪を起こし喚き立てる自分を何よりも恐れていた。
己の想いとは不思議なものである。月日が経つにつれ、幸村の中の激情も治まりつつあった。忘れようと必死になっているのか、それとも忘れたと己に言い聞かせているのか定かではなかったが、突然に泣き出すようなことはなくなっていた。ため息の数は本人が気付かぬ内に増えていたが、それでも憂いを帯びた表情を人前に出すことはなかった。元から感情を隠すことは不得手ではない幸村は、次第に笑みを取り戻しつつあった。
そんな折である。三成の密命を受け、大坂の真田屋敷に左近が姿を現した。いつぞやのように庭から入り込み、縁側に腰掛け月を肴に酒を呑んでいた幸村の動揺を誘った。幸村はその一瞬、どきりと大きく心ノ臓が萎縮したが、逆光で見えなかったのか、左近は幸村の僅かな逡巡には気付かなかったようだ。左近は幸村と顔を合わせるや、
「人払いを。」
と目配せをした。その一言で幸村は左近の来訪の真意を悟り、すぐさま頷き部屋の奥へ消えて行った。
幸村が部屋へと戻ると、左近は既に上がり込んでいた。障子や襖は全て閉められている。幸村は部屋に一歩踏み出した途端、唐突に泣きたくなってしまったが、唇を噛み締めその衝動に耐えた。左近がこれから対峙しようとしているのは真田幸村という一人の武将なのだと、必死に己に言い聞かせた。
「三成どのからのご伝言ですか。」
幸村の問いに、左近は懐から地図を取り出した。関ヶ原周辺の地図である。三成か、三成の手の者が記したのだろう。山や地名が細かに書かれている。三成の性格が出ていた。
「ああ。戦場が決定した。関ヶ原だ。要衝は必ずこちらが押さえる。味方も、少々強引なやり方だが、それなりの数が集まるはずだ。あとはあんたの働き次第だ。徳川の行軍を防ぐことが出来るか否か。出来るだけ多くの兵を足止めして欲しい。」
幸村の体温が下がっていく。思考が冴えていく。幸村は戦場で育ってきたようなものだ。自然とそちらへ意識がそれた。
幸村は地図を指で示しながら布陣を訊ねる。笹尾山、天満山、松尾山、南宮山、と幸村の指が地図の上をすべる。左近は幸村の問いに澱みなく答えた。
幸村は告げられた大名たちの禄から、大よその兵数を導き出す。数は多い。数の上では徳川軍に劣らぬ。だがそれは、皆が皆、三成の采配の元動けばの問題である。将の心を掴むのは難しい。それが歴戦の猛者であればある程、更に困難を極める。三成にそれが出来るか。三成が彼らを動かせるか。結論は、簡単であった。左近が幸村の答えを無言で待っている。幸村は地図から顔を上げ、左近を見つめた。射抜くような、鋭い視線であった。戦場を駆ける、一人の武将の顔であった。
「流石、三成どの、兼続どのが練られた策。見事な包囲網にございます。ですが、」
左近は幸村の視線を真っ直ぐに受け止めている。幸村が言わんとしていることなど、既に分かっているだろう。その言葉がいかに士気を下げるものかも、分かっているだろう。だが、左近は止めはしなかった。軍師としての才がある幸村の意見を是非とも聞きたかったのだ。
「このままの布陣では、負けましょう。いえ、どのように布陣を変えようとも、負けは必定。」
「…原因は?」
試すような口調である。幸村は、スッと地図を示す。松尾山は小早川が布陣をすることになっている。
「小早川どのが裏切りましょう。毛利一門もおそらくは動きませぬ。動かぬならばそれで結構。勝ちは十分に転がっております。一番におそろしいのは、彼らがこぞって寝返る場合です。」
要衝を任せているだけあって、連動して裏切られたら本陣をも踏み潰されるだろう。石田の兵は左近が鍛えていることもあり強兵だが、それでも二倍三倍の数を相手にできるわけではない。まず、間違いなく殲滅されるだろう。
「また、おねね様の様子も気になります。あの方は、開戦間近のこの時期になっても、何ら動きがありません。おねね様が三成どのに賛同して下されば、豊臣恩顧の諸大名は無力化できますが、まず、望みはありますまい。」
「何度も考え抜いたが、やはり、勝てる要素がない、か。で、あんたはどうする?徳川に下るか?俺を徳川に突き出すか?」
お手上げだ、と肩を竦めた左近に、幸村は苦笑する。左近は、幸村が徳川に走らぬことを分かっているからだ。幸村は小さく笑い声を立てながら、
「三成どの達と共に戦い抜きますよ。左近どのもそうでしょう?」
と、左近の顔を覗き込んだ。幸村は、主の為と叫びながら、笑いながら壮絶な死を遂げる武士の美しさを知っている。死ぬことは悲しい。だが、死を恐れ、その悲しみに囚われるは愚かだと思っている。戦に赴くとはそういうことであろう。生きるも死ぬも一時の運である。もし、この戦で己が死のうとも、それは己に運がなかったのである。無念であろうが、討ち死にというものは、大概がそういうものである。己が思うままに槍を振るい、声を振り絞る。その生に執着したくはなかった。そして、もしこの戦で三成が、左近が、兼続が、討たれようとも、悲しみに暮れたくはなかった。それがせめてもの手向けである。あの方は、大きな志を掲げ、己の義に基づき、そして死を賜った。その事実を汚したくはなかった。
左近との密談も終わった。このまま帰してしまうのも素っ気無い。幸村は、
「さて、では酒でもどうですか?」
と左近が訪問するまで呑んでいた酒瓶を差し出した。先程席を立った時に持ってきたのだろう、左近の分の杯がそばに置かれていた。
「今宵は泊まっていかれるのでしょう?少し身体を休めて、朝方早くに発たれれてはいかがですか?」
「じゃあ、そうさせてもらいますかね。殿の下で働いてると、どうも節約生活を送る羽目になるんでね。酒はありがたい。」
「どうです?土産として持っていかれては?」
「やめておく。貰った酒すら金に換えられたら、それこそ困っちまう。」
「ふふ、三成どのらしい。」
幸村はそう言ってくすくすと笑った。左近も口許を緩ませている。幸村は左近に酒を注ぎながら、ちらりと左近の様子を観察した。三成から何を聞いているのか分からなかったが、以前と何も変わっていない。自分はどうだろうか。ちゃんと笑えているだろうか。以前と同じように、ちゃんと割り切っているだろうか。幸村は思考しながら、左近に続いて己の杯にも酒を満たした。良い酒とは言い切れなかったが、酔うには丁度良い。幸村は杯に口をつけ、一口含んだ。
「なあ。あんた、どうして殿からの話を断ったんだ。」
幸村は杯を取り落としそうになったのを押し隠し、口の中の酒を慌てて飲み込んだ。ゆっくりと杯を畳に置く。しかし、幸村は左近が直視できなかった。体温が上がっていくのが感じられた。もしかしたら、頬が赤くなっているやも知れぬ。何を動揺しているのか、勘ぐられるのも、勘違いされるのも嫌だった。
「…三成どのは、何と仰っていたので。」
この問い返しは卑怯だと幸村は思ったが、これ以外の言葉が見つからなかった。あなたには関係ないことです、と口を開けば、自分の中の何かに火がつき、喚き立てそうな気がしたからだ。