左近も幸村同様、杯を置いた。幸村がちらりとその表情を覗けば、左近の顔には笑みすら浮かんでいた。この話題を楽しんでいるのか、それとも酒の肴に丁度良いと思っているのか。幸村は慌てて顔を伏せた。
「あんたに振られたんだと、俺には報告してきたんだがね。おそらく、後にも先にも殿のお誘いを断ったのはあんただけだろうな。」
「三成どのには、本当に申し訳のないことを…。」
「ま、予想はしてましたけどね。まだ嫁ぐには早いとかあんたは思ってるかもしれんが、そんなことを言ってっと婚期を逃すぞ。」
 左近はそう言い、声を立てて笑った。幸村はまるで条件反射のように、深く考える前に言葉が飛び出してしまった。
「既に、逃しておりますよ。」
 場に幸村の声が響き、余韻も残さず消えてしまった。その瞬間、幸村は己が発した言葉の意味が、どれ程失礼なことなのかを悟った。これでは、まるで左近を責めているようなものだ。あなたがあの時娶ってくれたら私は女になれたのですよ、と言外に非難しているようなものだ。それ程までに、幸村の切り返しは痛烈であった。
 幸村には、ここから二つの選択肢が残された。昔を非難し左近を責め立て、勢いのまま想いを告げることが一つ。もう一つは、
「…申し訳ありません、冗談が過ぎました。」
 それが口から飛び出した戯れであると、誤魔化すことである。幸村は、その選択を取った。女々しい己は嫌いであった。そして、他人に己の感情をぶつけることもまた、厭うていた。幸村は、左近の反応から、既にこの縁を諦めていた。この想いは己の胸にそっとしまっておこう。誰にも見つからないように、誰にも打ち明けてしまわないように、大切に大切に、墓場まで持っていこう。幸村はそう思った。それ以外の方法を知らなかったとも言えよう。惨めな己が嫌であった。想いを打ち明けたら、左近はきっと責任を感じてしまうだろう。想いに応えてしまうだろう。そう仕向ける己の賢しさが嫌であったし、同情で想い人に抱かれる惨めな思いなどしたくはなかった。幸村は高潔な武士でありたかったのだ。

 幸村は小さく息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。にこりと微笑めば、左近も幸村の不審を頭の隅に追いやったのだろう、左近の表情も柔らかなものになった。
 頭は冴えていたが、酒も入ったせいもあり、頬は暑く感じられた。部屋を閉め切っているので、熱気を孕んだ空気がじわじわと肌を圧迫しているのかもしれない。幸村はついいつものように、足をくずしてぱたぱたと裾を持ち上げ風を送った。陽に焼けていない足首やふくらはぎが、その度にちらちらと覗いた。気休め程度の風しか送られてこず、幸村はすぐに手を止めた。
「すいません、戸を開けてもよろしいでしょうか。」
 幸村はそう言って立ち上がる。左近は無言で幸村の様子を見つめていたが、次の瞬間、引き止めるように幸村の腕を掴んだ。何か?と振り返った幸村の目に、左近の真剣な表情を飛び込んできた。
「何の間違いがあるか分からん。気の迷いってのもあるだろう。あんまり無防備だと、痛い目に遭うぞ。」
 幸村は先程のはしたない様子を思い出し、顔に血が上っていく気がした。だが、それは酒のせいにしたかった。己が女子だとは、未だ拒絶している幸村である。お前は女なのだから、と言われている気がして、幸村は誤魔化すように笑った。
「そんな女気がありますか?」
 幸村は左近の腕を解こうと、空いている方の手を添え、指を絡めながら、
「ご冗談を。」
 と笑う。左近はスッと目を細めた。左近の腕の力が、僅かに強くなった。
「幸村。」
「?はい。」
 幸村は笑みを浮かべたまま、次の瞬間起きたことが理解できずに固まってしまった。ぐい、と力任せに腕を引かれ、左近との距離が縮まる。そのまま左近に抱き留められ、幸村が背を打たぬようにゆっくりと畳に押し倒された。畳に押し付けられた衝撃に、幸村が、
「あっ、」
 と情けない声を上げたが、その時点では視界が逆転したこと以外、何も理解していなかった。左近の顔の背景に、天井があった。遅れて、圧し掛かっている左近の体重を感じた。裾は捲れ上がり、肌が惜しげもなく晒されているが、幸村の意識はそちらへはいかなかった。片腕は左近に押さえつけられ、もう一方の左近の腕は、幸村の顔の真横、幸村を畳に縫い付けるように突き立てられていた。幸村は、悪ふざけはやめて下さい、とそう笑って左近を押し退けようとした。だが、部屋の僅かな灯りが照らした左近の表情はあまりにも真剣で、幸村から言葉を奪った。唐突に、幸村の中で恐怖が芽生えた。身じろぎをしようにも、左近の腕の力は強く、びくともしない。男とはこういう生き物なのだと思うと、途端に絶望した。男に敵わぬ己の力が悔しかったのだ。
「…あまり男を挑発するな。取り返しがつかなくなるぞ。」
 左近はそう言うや、ようやく腕の力を緩めた。
「怖がらせちまったかね。」
 左近は笑いながら幸村から退く。幸村は大慌てで身体を起こし、ついでにめくれていた裾も直した。左近の顔など直視出来ない。左近にからかわれたのだと思うと、火が出る程に恥ずかしかった。
「さて、そろそろお開きにしようとするか。悪いが、部屋まで案内してくれないか。一睡したら、ここを発つ。」
「は、はい。ただいまっ。」
 幸村は動揺をそのままに立ち上がり、既に夜も更けた刻限であるにも関わらず、大きな足音をさせ、廊下へと消えていった。左近はその様子をやれやれといった様子で見守りながら、忘れられた幸村の杯をぐいと呷ったのだった。




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