左近を部屋へと案内した幸村は、再び自室へと戻っていた。先程のことを、鬱々とした気分で思い返していた。自分ばかりが左近に動揺させられている気がしたのだ。左近は既に過去のこと、と幸村に対する接し方も割り切っているようだが、幸村は決してそう思い切れない自分がいた。いや、この想いに気付いてしまう前は、己も割り切った考え方をしていた。それなのに、と、思わずにはいられない。
 頭を抱えて部屋の隅で考え込んでいた幸村は、気配を感じ顔を上げた。忍びの気配である。
「六郎か。どうした。」
「はっ。」
 音もなく幸村の前に姿を現したのは望月六郎である。六郎には極秘の任があり、それが整うまで屋敷には戻らぬ予定であった。
「準備が整ったか!」
 幸村の声に喜色が混じる。六郎も幸村に触発されたのだろうか、頬を紅潮させ、
「はいっ。」
 と顔を上げた。幸村は嬉しそうに六郎の肩を叩き、よくやったよくやった、と誉めそやす。
「あとは私の腕次第だ。ふふ、この戦、必ず勝つぞ。」
 先程の鬱々とした様子はどこへやら、子どものように笑う幸村の姿がそこにはあったのだった。


 さて、左近は僅かな睡眠を取り、すぐさま真田屋敷を出立した。陽が昇り始めると、人々の生活もまた始まってしまう。人目がつくのは避けたかった。幸村は一睡もせぬまま、左近の見送りに玄関へと向かった。正直、左近は幸村に避けられる、気まずくなってしまった、と思っていたが、幸村は予想に反して上機嫌であった。にこにこと笑みすら浮かべて、
「道中、食べて下さい。」
 と握り飯を渡した程だ。これには左近の方が反応に困ってしまった。あの時のことをなかったことにしているのか、それとも冗談だと本気で思っているのか。はたまた、何かの拍子に忘れてしまったのか。幸村の様子はまさにそうであった。真田幸村という一人の武将が、いかに強かな存在かを思い知った左近であった。
「では、お気をつけて。」
 深々と幸村は頭を下げる。左近はそれに軽く会釈をしながら、
「ああ。世話になったな。」
 と笑う。幸村も同様に笑い、まるで子どものような無邪気さで言った。
「三成どのにお伝え下さい。必ずや、勝利を馳走致します、と。」
 何やら引っ掛かりを覚えた左近が、
「危険なことはしてくれるなよ。」
 と釘を刺したが、幸村はふふ、と笑うばかりであった。


 大坂の町を出た辺りで、左近は足を止めた。幸村の屋敷から、密かに気配を感じていたからだ。敵意はないが、時折刺すような視線を背中に感じる。人々はまだ起き出してはいない。人気はなかった。
「幸村のところの忍びか?」
「島さまに一つご忠告をと思いまして。」
「それにしては、勇ましい限りだな。」
 左近にしてみれば、忍びの穏やかではない様子を揶揄したつもりであったが、忍びはにこりともしなかった。左近がゆっくりと振り返る。
「幸村さまが影の一人、穴山小助と申します。早速ですが島さま、戯れが過ぎまするぞ。今後あのような態度では、命の保障は出来かねます。」
「気の迷いだ。忘れてくれ。」
「たまたま、昨日の番が私でよかった。他の者でしたら、その頭に穴が開いていましたよ。」
 左近は、お前で助かったなあ、と笑っているが、それが冗談でないことを知っていた。幸村の周りを守っている忍びは、幸村に害が及ぶとなれば、左近を葬ることになんら戸惑いなどない連中ばかりであったからだ。左近が幸村と昵懇であっても、その事実は変わらないだろう。いや、それとも、下手をしたら左近が幸村を奪っていた可能性もあるわけだから、その険悪度は更に増しているのかもしれない。幸村も厄介なものを抱えているなあ、とは人事に思ったが、戦場の幸村を知っている左近としては、それも仕方がないものだと感じていた。戦場の幸村は、それはそれは綺麗なのだ。あの冷たい炎のような目を、黒黒と敵を見据えるあの瞳を。凛と通る声を、身に纏う闘志を。それは呼吸を忘れる程、心奪われる程に美しかった。思わず身震いをしてしまう程であった。

「島さま、自惚れは大概にして下さい。」
「分かってるつもりだ。幸村は別に俺に操を立ててるわけじゃない。たまたま、そういう機会がなかっただけだろう。」
「では、今回のことはどうお考えですか?」
 三成との一件は、そういう機会が巡ってきた、とも言えなくはない。だが、幸村は断ってしまったではないか。左近はそれをどう考えているのか。小助の問いはそこである。しかし、左近が幸村の心中を知っているわけではない。幸村は何も語らなかった。そして三成も、その理由については何も語らなかった。矜持の高い二人である。結論の出た物事をいつまでも蒸し返されたくはないだろう。
「さあ、な。まだ、戦は終わっちゃいない。それを見越してのことじゃないかねぇ。」
「島さま。煙に巻こうとも無駄です。あなたは、まだどこかで期待しているのではないですか。」
 やめてくれよ、と言う風に、左近は手をひらひらと振った。過去に縋るのは好きではなかった。また、そこまで若くはないと自覚している。若気の至りと誤魔化す歳ではなくなってしまった。
「島さまであれば、我らは反対致しませぬ。」
「おいおい。あんたも冗談はよしてくれ。あいつは別に、俺じゃなくてもいいんだよ。未練じゃないだろう。歳も離れちまってるしなあ。昔は気にならなかったが、今じゃあいつに俺は釣り合わんだろう。」
 歳だろうか、最近ふと考えるのだ。もし幸村が己の妻になっていたら、自分たちの立場はどれ程違うものになっていただろうか、と。己も大概未練がましいものだ、と思わずにはいられなかった。
「まあ、幸村はいい女だ。器量もいい。度胸もある。だからこそ、あいつの幸せを考えてみたくなる。これは当然のことだろう。」
「それ程までに思って下さっているのならば、何故そのように接しませぬ。幸村さまを何故幸せにして下さいませぬ。もしかしたら、幸村さまもそれを待って、」
 左近は小助の言葉を最後まで聞かず、再び踵を返した。小助はその態度に口を噤んだ。己が如き忍びが口出しをすることではないと重々承知していたが、言わずにはいられなかった。幸村が悩んでいることなど、小助たちには筒抜けであったからだ。縋るように左近の名を呼んだが、左近は、
「冗談はやめてくれ。」
 と表情を消した声を発し、歩を再開させたのだった。




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