左近が佐和山城へと戻れば、三成は自室で左近の帰りを待ちわびていた。既に上杉討伐の正式な触れが出ている。あとは三成が挙兵する間合いを見計らうだけである。己に戦の才がないと自覚している三成だからこそ、相談相手の左近が側にいないとなると、流石に心細くなるようであった。左近は部屋の前に立ち、静かに三成に呼びかけた。三成は相も変わらず不機嫌そうな声で、左近の入室を促した。
「幸村は壮健であったか。」
 開口一番にそう訊ねる三成に、左近もうろたえた。気遣いが出来ぬお人ではないが、それが他人には悟られにくい人種であるのが三成だ。左近は三成が、どれほど家臣たちを大事にしているか、領民たちを大事にしているか、そしてそれを与えてくれた豊臣にどれだけの恩を感じているか、重々に承知しているつもりだ。確かに、三成は言葉にせぬ。むしろ言葉にした分、表情に表した分だけ損をしている。だからこそ、態度で示す。家臣たちには禄を、領民たちには彼らを慮った政策を、そして豊臣には、二心無き忠義を貫こうとしている。言葉では示せぬゆえに、行動で態度で、必死に報いようとしている。左近は三成の近くでそれを感じていた。不器用なお人だ、と、そして、秀吉のような男の側でなければすぐに身を滅ぼしてしまっていただろう、と、左近はそう感じている。それ程までに、三成の理想は清廉であった。乱世を知らな過ぎた。けれど、左近はそれでもよいと思っている。乱世の中を生きた左近だからこそ、三成の無知とも呼べる清廉さがこれからの時代必要になってくるであろうと思っている。それは、幸村も同じかもしれぬ。石田三成とは人当たりが良いとは言えぬ人物である。左近にとっても、三成の第一印象は決して良くはなかった。けれど、結果として左近は三成の側近くに仕えている。三成の理想とする義は、確かに甘い。人は良い人間ばかりではない。それを、三成は知らぬ。いや、信じようとはせぬ。だが、だからこそ左近は三成を選んだのかもしれぬ。戦の駆け引きすら知らぬ御仁こそに、希望を見出してしまったのかもしれぬ。左近はそれが不快ではなかったし、むしろ誇りに思うことであった。それは武士の意地にも似ていた。義を掲げる主が好きであった。三成のような主の為であれば、死も厭わぬと左近はそう思っている。だが、幸村もまた同じ想いだとすると、話は別である。幸村は生きねばならぬ。幸村は武士ではない。武士とは生き様である。生き様だと左近は思っているが、武士の葛藤とはすなわち男(おのこ)の葛藤であるとも思っていた。

 左近は苦笑を浮かべながら、
「元気でしたよ。もう少し自分の立場を理解してもらいたいぐらいに、ね。」
 と言う。もちろん、女子としての自覚を持ってもらいたい、という思いであったが、三成にはどう伝わったのだろうか。三成は左近の言葉に無言で頷き、側に寄れ、と顎で隣りを示した。
「お前にはすぐに上杉へと足を運んでもらう。連絡を取り合うのもこれが最後だ。」
「ま、そろそろ潮時でしょうな。これから更に忙しくなりますし、文のやり取りでどうにか連絡を取るほかないでしょう。」
「左近。」
 どこか茶化した雰囲気の左近に、三成は厳しい声を吐き出した。左近は内心ため息をつきながら、三成の言葉を無言で催促する。
「昌幸どのが、こちらに参られた。」
「昌幸どのが?」
 幸村の父である。三成と昌幸の接点は、間に幸村が立たなければ無いと言いきってしまって良い程の、薄い繋がりである。左近も武田の頃は何かと世話になったし、幸村と親しくしていた経緯もあり、それなりの面識があった。軍略や智略と言った面では左近と通ずるものもあり、おそらく此度の急な訪問も、今後の身の振り方を探りに来たものであろう、と左近はそう憶測した。確かに幸村は豊臣方に近いが、兄の信幸は徳川の傘下に入っているようなものであり、真田家としては今回の戦ほど判断の難しいものはないだろう。また、諸将に公に檄文を送れぬ状況では、昌幸の考えを探るのは難しい。豊臣か、はたまた徳川か。昌幸、そして真田家は未だその間に挟まれている状態なのだ。
 左近は、この主が百戦錬磨の策士である昌幸と対面したのだと思うと、途端頭が痛くなる思いがした。謀が出来ぬ人ではないが性ではないし、何より昌幸のような場慣れした人物の前では三成の虚勢など児戯のようなものだ。まさか重要な機密を三成が話してしまうとは思えなかったが、鎌をかけられ、うかと零してしまう言葉がないとは言い切れない。特に昌幸のような人物は、人の言葉の端々、その表情から動作、纏う空気などから読み取る力が尋常ではない。
(しまった。)
 そう思った左近であったが、三成の次の言葉にその思考も止まった。

「昌幸どのは、幸村の話ばかりして帰られたぞ。やはりあの時幸村を嫁に出していれば、ここまで男勝りにはならなかったと嘆いておられた。この戦が終われば、幸村の嫁入りを真剣に考えるそうだ。」

 左近にしてみれば、三成が幸村の過去を知っていることが何よりも驚きであった。が、左近が僅かに表情に漏らした動揺を三成は都合よく勘違いしてくれたようだ。
「あの幸村に婚約者が居たとは、俺も驚いたものだ。武田の頃の話だと聞いたが、左近は何も知らなかったのか?」
 どうやら昌幸は色々と三成に鎌をかけていったらしい。幸村にそういった話が出ていたことを三成は知っているか。その話を二人は満更でもなさそうに受けていたことを知っているか。その相手が左近であることを知っているか。しかし、今の三成の口ぶりからして、三成が知っている事と言えば、幸村に昔、婚儀を交わす約束をしていた男が居た、というだけであった。その相手が左近だと知っているのであらば、このような微妙な話を左近に話したりはしないだろう。そして、今の左近と同じようにそう悟った昌幸は、どうやら詳細を何も告げなかったに違いない。左近はほっと胸を撫で下ろす。しかしそれも束の間の話であった。三成の一言が、左近の胸に静かに波乱を呼んだ。返事をせぬ左近を大して気にとめることもなく、三成は更に言葉を連ねた。

「昌幸どのには言えなかったのだが、幸村は今でもその男を慕っているようなのだ。」

「そ、れは、幸村がそう言ったんですか?」
 僅かに言葉が震えたが、三成は気付かなかったようだ。まさか、三成の勘違いだろう誤解だろう。この主は何かと早とちりをする癖があるから、きっとそうだ。この件に兼続が関わっているとしたら、更にその疑いは増す。大方幸村が返答に困っているのを、都合の良いように解釈したに違いない。左近の頭は冷静であった。そんなわけがない、そういった素振りすらなかったではないか。頭は冷静であったが、その冷静な頭を支える感情の一片が、唐突に風波を立てた。早く結婚しろ、殿なんてどうだ、と薦めた時の幸村は何を思っていただろうか。殿との縁談はどうなったと、そう訊ねた時の幸村は何を想っていただろうか。何より、以前のように笑おうとする幸村は、何を思い何を考えどんな想いで言葉を紡いでいたのだろう。左近は唐突に、ああ幸村に謝らなければと思った。その思いは己の考えすぎであったし、更に言うなれば三成の勘違いであるはずであった。だが左近は、そう思っているにも関わらず、ああなんてひどいことをしてしまったのだろうという思いが止まらなかった。婚期を逃していると、痛烈に言い返した彼女こそ、本当の姿ではないだろうか。そう考えてしまう程であった。
 三成は左近の些細な動揺を、やはり間違った方向へ誤解したようである。鼻を鳴らして、
「幸村から聞き出すのに、苦労をした。」
 と感情のこもらぬ声で言うのだ。そして、ろくに返答もせぬ左近をほったらかしに、
「俺も幸村の相手探しに協力しようと思う。余計に、この戦は負けられなくなってしまったな。左近、頼りにしているぞ。」
 ぽんと左近の肩を叩き、さあ話は終わったからお前は早く上杉へと行け、とさっさと視線を外し、背を向けてしまった。左近はその背にぶつける言葉を失い、一礼をして三成の部屋を出たのだった。




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