所変わって、大坂である。大坂城は女子の城と呼ばれる程に、女性が権力を握っていた。その最もたるが、秀頼の実母、淀の方であった。
さて、そこ大坂にも、僅かな変化が訪れていた。既に家康が上杉討伐の為に出陣しており、三成もまた、その家康を討たんと公に文を飛ばしていた。そんな中での、些細な出来事であった。
ある日、秀頼の膳に毒が盛られている、と真しやかな噂が流れた。戦の最中、噂など飛び交って当然なのだが、それが秀頼に関わることとなると淀の方の目の色は変わってしまう。それ、誰れぞ毒見をせよ、目の前で食うてみよ、と駄々をこねたのだ。それに困ったのは女官たちである。よもや毒が盛られているなどは思わぬが、噂が嘘とも限らぬ。互いが互いを見合わせ、淀の方の不興を買っていた。そこへである。静かに前へと進み出た女官が、躊躇いもなく秀頼の膳の一つを口に含んだ。その女官は口の中のものを飲み下した後、手をついて、
『ご無礼を致しました。毒は盛られてはおりませぬ。どうぞ安心して召し上がりくださいませ。』
言うやひらりと浅緋(うすあけ)の色をした衣を翻し下がっていった。颯爽としたその動きに、誰もが言葉を失った。淀の方が慌てて近くに控えていた女官に彼女の名前を訊ねたが、誰一人として答えられるものはいなかった。
見慣れぬ顔であったが、整った顔には愛想があり、相手を自然に打ち解かすものがあった。生まれを聞いてものらりくらりとはぐらかしてしまい、名を知らぬというのに妙な親しみを感じさせる何かを持っている彼女であった。おかしなことに、誰一人として彼女の名を知っている者はいなかった。浅緋(うすあけ)の着物を好んで身に着けていたことから、次第に浅緋(うすあけ)と呼ばれるようになった。
彼女の話はそれだけではなかった。大坂城は女子の城だったが、戦が始まろうとしている時分である。淀の方に伺いを立てる者は少なくはなかった。中でも、秀頼公ご出馬を願う者たちが、こぞって淀の方に面会を求めていた。その席での話である。
初めは神妙にしていた男たちであった。訥々と戦の是を語っていた。しかし、戦というものの魔力であろうか。語る言葉に熱がこもり、目にも力がこもり、次第に手振り交えての演説が始まる。そうした熱気の中であった。戦の熱を思い出したのか、男は己の話に興奮したようで、突然に暴れ出してしまったのだ。非力な女官たちは逃げ惑うばかりで、誰も男を取り押さえようとはしなかった。我先に逃げ出し、混乱が混乱を呼んでいた。更には、上座に座していた淀の方、秀頼にまで襲いかかろうとしたその時である。いつぞやの日のように、颯爽と躍り出、ひらりと裾を翻して、己よりも体格の良い男を畳に押さえ込んでしまった。浅緋であった。
大坂城での、とある出来事。大坂では話題になろうとも、諸将の耳には入らぬ程の、些細な出来事であった。舞台は再び戻り、慶長五年(一六〇〇年)、後に関ヶ原の戦いと呼ばれる戦が、今開幕しようとしていた。