慶長五年(一六〇〇年)九月十五日。関ヶ原で衝突した石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍との戦はたけなわとなっていた。
 黒田長政勢の鉄砲を受け、左近は本陣に戻されていたが、左近同様三成の信が篤い舞兵庫、蒲生郷舎が兵を指揮していた。左近が鍛えた石田の兵は強く、屈強な三河武士を相手に一歩も引かなかった。戦況は膠着状態である。石田勢は何とか戦線を保ってはいるが、既に白兵戦へとなだれ込んでいる。こうなれば、大筒も鉄砲も味方に当たってしまう為使えぬ。三成は本陣で左近の手当てをしながら、伝令が届ける報を唇を噛み締めながら聞いていた。戦況は決して悪くはない。ここで新たに戦線に加わる部隊があれば、確実に徳川勢を追い詰めることができるだろう。だが、未だ家康本軍が動いていないにも関わらず、三成の本陣にはもう後詰めしか残されていない。戦が長引けば長引くだけ、開戦から戦い続けている石田の兵は疲弊し、次第に押され終いには敗走の憂き目をみることになるだろう。三成は何度とも知れぬ舌打ちをし、松尾山へと視線を向けた。松尾山は西軍最大の兵数を誇る小早川秀秋の陣所となっている。幾度と上げた狼煙に気付かぬのか、それともその心を既に家康に売り払っているのか、小早川は沈黙を守ったまま動かなかった。同じく、毛利一門の吉川広家、毛利秀元も、山から駆け下り戦に加わる様子が微塵も見受けられなかった。
 今ここで兵を出さずして、戦に勝てようか!
 三成は睨み付けるように彼らの陣所を見上げ、悔しげに唇を噛み締めた。苛々とした様子で無意識に手にしている扇を開閉している。そこへ、更に伝令兵が続々と飛び込んできた。
「小西行長様、敗走!」
「我が方、押されております!至急援軍を!」
「徳川勢、新手を投入!率いるは本多忠勝!」
 三成は床几を蹴飛ばし、強く鉄扇を握り締めた。もはや、小早川の援軍などあてにならぬ。三成は静かに息を吸い込んだ。
「俺が出る。皆、用意せよ。本陣は、」
「殿、援軍には俺が参りましょう。兵庫や郷舎ばかりにいい格好はさせられませんよ。」
 声の主に、三成は慌てて振り返った。左近である。左近の鉄砲の傷は、不幸中の幸いだろうか、貫通しており傷の範囲は小さかった。だが、出血は未だ止まっておらず、顔色は決して良いとは言えない。身を灼くような痛みが、常に左近を蝕んでいるに違いない。だが左近は、そのような状態にも関わらず、平然とその場にいつものように佇んでいた。表情には、いつもの余裕を見せるような笑みすら浮かんでいた。三成も左近の笑みに一瞬ひるんだものの、すぐに眼光を鋭くした。
「お前はもう少し休んでいろ。無駄死にでもされたら、それこそこの戦に勝てぬ。」
「殿は左近の手腕を疑いで?」
 茶化した様子で左近は言葉を継ぎ、三成の隣りに並んだ。三成の陣からは、戦の様子がよく見渡せたからだ。
「そのような青白い顔で何が出来る?犬死になど、俺は決して許さんぞ。」
「殿、犬死にじゃないですよ。殿の為に死ねるんだ、武士にとってこれ以上の誇りはありません。俺は豊臣に仕えてるんじゃない、殿に仕えてるんですよ。」
「俺は、お前の忠義は欲しいと言った。だが、命まではいらん。そのような重苦しいものを、俺に背負わさせるな。図々しいにも程があるぞ。」
 左近は苦笑して、三成の言を聞いた。それこそが我が主である、と何やら感慨深いものがあった。だが、ここで三成の言葉に従うわけにはいかない。毛利も小早川も動かぬというのであれば、この戦は勝てぬ。勝てぬが、負けてやる義理はない。左近が中央で踏みとどまれば、三成が撤退する時間を僅かなりとも稼げるであろう。三成の首さえ上がらなければ、この戦負けではない。本陣を踏み荒らされる前に、素早く退却すべきである。朝から戦い続けている石田の兵も、流石に疲労の色が濃い。これでは戦線を支えきれぬ。早く逃げてくださいよ。そう口を開こうとした、まさにその瞬間であった。

「伝令!援軍と思しき軍団が、こちらに向かっております!」

 二人の鋭い視線が伝令兵に注がれる。普段、三成の視線を受ければ怯むであろう兵も、興奮のあまり気にならぬようであった。それ程までに、この伝令が持ってきた報は三成たちに衝撃をもたらした。

「見受けられました指物は主に三つ!六文銭――真田幸村様!一文字に三ツ星――毛利輝元様!」

 予想外の人物の参陣に、三成は身を乗り出す。幸村は上田で徳川秀忠と交戦しているはずである。秀忠の軍が未だ関ヶ原に姿を見せぬということは、真田の足止めを喰らっていることは確実である。その幸村が、三成が何度も出兵を願い出、終ぞ叶わなかった毛利輝元と共にこちらに向かっているとは、まさに予想すらしていなかった。伝令は最後の一軍を伝えるべく、呼吸を繰り返していた。あまりのことに興奮し、言葉を告げぬようである。伝令兵は大きく息を吸い込み、ようやくそれを口にした。


「五三桐の旗指物!――豊臣秀頼様、直々のご出陣にございます!」





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