にわかに東軍が浮き足立った。混乱を利用し、徳川本陣に程近い場所に幸村が着陣する。幸村は群がる敵兵をその槍で倒しながら、
「太閤様が忘れ形見、秀頼様のご出馬ぞ!秀頼様御自ら、石田三成殿のご加勢に参った!そなたらは誰ぞ家臣ぞ!秀頼様に槍を向けるは、この真田が討ち取る!」
そう高々と名乗りを上げた。未だ秀頼は関ヶ原に姿を見せていなかったが、幸村の言葉は諸将に動揺させるには十分であった。特に、福島正則や浅野幸長など豊臣恩顧と呼ばれる将への影響力は大きい。途端に動きが鈍くなり、一時、陣へと退却を始める者も居た。幸村はその混乱に乗じ兵を鼓舞し、崩れかけていた味方西軍の援護へ回り、立て直しを図っている。もうしばらくで、秀頼たちは関ヶ原に到着するだろう。幸村は秀頼に従っているように見せかけながら、実は早駆けして救援に向かっていたのだ。秀頼に付き従っているのは幸村の影である。また、幸村の影の一人である穴山小助は上田城で昌幸と共に奮戦している。幸村はここで手勢を三つに分けていたのだ。優れた忍びを持つ幸村にしか出来ぬ離れ業であろう。
「幸村さま。」
「六郎か。急ぎ三成どのに伝えて参れ。」
「はい。」
望月六郎はその健脚を活かし、すぐさま走り出した。幸村はしばしの間六郎の後ろ姿を眺めていたが、六郎の姿が見えなくなると同時に戦へと意識を集中させた。西軍の勢いは決して負けてはいないが、皆に疲労の色が伺えた。一度兵を引き、立て直す必要があると幸村は考えた。そう結論を出した後の幸村の行動は早い。徳川の猛攻に押され気味の隊を救援すべく、突撃を慣行した。少ない手勢ながら、騎馬の突撃はそれだけで効果がある。呆気なく散り散りになっていく敵兵を見届け、すぐに馬首を返し走り出した。標的は、石田の兵に群がる徳川の一団であった。
幸村が石田の兵へ加勢している頃、本陣には幸村の忍び、望月六郎が到着していた。六郎はすぐさま三成に通された。
「秀頼さまがご出馬は、幸村の仕業か。」
「はい。ですが、此度の策、幸村さまお一人で考え出された秘儀にございますれば、もしもの時は幸村さまお一人のご責任で御座います。石田さま、島さまは知らぬ存ぜぬを通せば、何の疑いもかけられませぬゆえ。」
六郎は頭を上げ、三成を見、次いで左近へと視線を向けた。六郎は石田の陣へと赴く際、左近が手傷を負ったことを兵たちから聞いていた。常と変わらぬ様子で佇んでいるものの、その顔色は悪い。休んでいるべき傷なのだが、この戦況のせいでそうも言ってはいられぬのだろう。
「俺はそのような小さきことを言っているわけではない!あいつはまた、一人で勝手に危険を…!」
「石田さま。そして島さま。我が主はこう言っておられました。"真田が勝機をお作り致します。必ずや、勝利を馳走致します。"と。」
六郎はそう幸村の言葉を告げるや、まるで消えるように去って行った。残された三成は考え込むように地面を見つめていたが、何事か吹っ切れたのか顔を上げ、左近へと視線をやった。左近はその顔を見るや、ああ何かを決意された時のお顔だ、と内心思ったものである。
「左近。幸村が折角整えてくれた舞台だ。俺はどうすれば勝てる?」
「まずは鬨の声を上げることですな。そして、秀頼さま着陣を大声で叫び立てることです。そうすれば、福島たちは身動きが取れますまい。その間に一旦兵を引き、兵を少しずつ休息させるべきです。」
「分かった。すぐにでも実行しよう。」
ここに、西軍の反撃が始まったのだった。
幸村の許へ再び戻った六郎は、すぐさま左近が負傷していることを告げた。そして、早く左近の許へ駆け、左近に会ってくるべきだと、そう熱心に説いた。左近が死ぬ覚悟でこの戦場に立っていることを、六郎は肌で感じ取ったからである。しかし幸村は頑として首を縦に振らなかった。己は左近に懸想しているかもしれぬ。左近のことを好いているかもしれぬ。だが今は戦場に立つただ一人の武将でありたいのだ。真田幸村は、おそらくこの戦が終わればいなくなってしまうだろう。だから、この戦が終わるまで、己はただ一人の武将でありたいのだ。六郎はもちろん更に言い募ろうとしたが、幸村のこぶしが耐えるようにぎりぎりと力強く握り締められていて、言葉を失った。捨ててしまえば良いのです、と軽々しく口に出来る程、六郎は無情にはなれなかった。
形勢はいとも簡単に逆転した。秀吉が亡くなってまだ二年しか経っていない。流石に豊臣に槍を向けるのを躊躇う将が多かった。秀頼が姿を見せるまでは、よもや虚言では?と疑いを抱いていた将も、豊臣の紋が西軍の本陣にはためいているのを目撃すれば、それが真実であると知れたようだ。霧はとうに晴れていた。三成の陣を埋め尽くすように、五三桐、豊臣の旗がずらりと並べられた。
また、行動に移すには遅すぎたが、それを見た、今まで沈黙を保っていた小早川の軍が進軍を開始していた。時を同じく、毛利の軍も同様の行動に出ている。毛利輝元が秀頼を守っている以上、日和見をしていても仕方のないことだと思うたのであろう。毛利一門の出陣に東軍も退く以外の選択はなかった。
三成に出迎えられ、秀頼は無事本陣へと入った。驚いたのは三成である。本当に秀頼が直々に、この戦場に訪れていた。幸村はどうやって淀の方を説得したのであろうか、と左近などはそう思ったのだが、三成は慕っていた主の嫡子が立派な鎧を纏った姿に感激しきりであった。齢七歳の幼子であるが、元々体格が良いだけに四、五歳は上に見える。秀頼のことは赤ん坊の時から知っている三成である。ああご立派になられた、秀吉さまも喜んでみえるだろう、と今にも泣き出しそうな雰囲気である。だが、三成を驚かせたのはそれだけではない。毛利輝元に従う一人の男に、三成は思わず声を上げてしまった。おそらく、優柔不断の輝元の尻を叩いてここまで連れて来てしまったのはこの男なのだろう。
「三成!まだ戦は終わってはいないぞ!これからがふんばり所だ!」
呆けている三成の背をばしばしと叩きながらそう言うは、長谷堂城を攻略しているはずの直江兼続であった。
「さて、もう一戦交えるか。それとも和議を向こうから持ちかけてくるだろうか。」
そう先程三成が蹴飛ばした床几を起こしては腰し掛け、腕を組んでしまった。三成としては兼続がこの場にいる経緯が分からなかった。左近もまた同様である。幸村であったのならば、父に全てを任せてこの場に赴いていても何ら支障はないだろう。だが兼続の場合、上杉の政を一手に担うだけでなく、軍師として上杉景勝を支えなければならない重要な人物であるはずだ。西軍としては兼続の登場を喜ぶべきなのだが、上杉のことが気になってしまい三成は素直に歓迎できない。最早二人は腐れ縁が切れぬ仲だ、兼続は三成の思考をひょいと読み取った。
「景勝さまに無理を言ってこちらに参った。いや、幸村に乞われてな。秀頼公を支えながら、且つ、輝元どのを戦場に引っ張り出すのは私にしか出来ぬ、とまで言われて、お前は断ることが出来るか?しかも、何より可愛い幸村からの頼みでは、私も嫌とは言えぬよ。滅多に人を頼らぬ幸村だからな。何、景勝さまならば大丈夫だ。あの方に任せておいて間違いはない。残念と言えば、あの方の采配を近くで見れぬことが、何よりも残念だがな。」
そう一息で言い切り、またしても三成の背を強く叩いた。だが、今度はそうはいかぬ、と三成がひらりと避けたものだから、兼続の手は空を叩くことになってしまった。悔しそうに唇を尖らせた兼続だが、すぐさま真剣な顔になった。三成もつられるように表情を引き締める。
「此度の戦、功労者は幸村であろうな。私も聞いた時には驚いたのだが、幸村は淀の方を説得し、秀頼公出馬を正式に認めさせたようだぞ。淀の方お気に入りのお前ですら出来なかったことを、幸村はいとも簡単にしてのけてしまった。いやはや、あの子にはいつも驚かされる。」
「それは俺も気になっていたことだ。」
「いや、それがな、なんと幸村は、」
その時である。にわかに戦場が騒がしくなった。伝令兵が転がり込むように三成たちの前に姿を見せた。西軍勝利は目前である。にも関わらず、伝令兵の顔色は悪かった。
「敵、援軍!奥州の伊達と、江戸の結城!」
「何?!」
三成ではない。兼続である。兼続は勢いよく立ち上がった。はずみで床几が倒れる。
「利に群がる山犬め!よし私が迎撃しよう!三成、兵を貸してくれ。」
「お前は秀頼さまの側に居るべきだろう。俺が出る!」
兼続は単身、毛利にまぎれてこの場に来ていた為、己の軍を持っていない。当然誰かに借りなければならないのだが、三成もまた、味方苦戦を間近で見ていた為、出陣したくてたまらなかった。言い争いになるが、埒が明かない。困った方たちだ、と左近は肩を竦め、
「ここは俺が出ましょうか?」
と訊ねるも、
「怪我人は引っ込んでいろ!貴様のその顔、不快でたまらん!」
と容赦のない言葉が返ってきた。そうこうしている内に伊達の援軍が到着してしまった。数の上では負けてはいない。だが、小早川に伊達の強兵を押さえるだけのものを期待できなかった。流石にこれではいかぬと二人は思ったのだろう。顔を見合わせ、頷き合った。
「ここは二人で出るぞ。采配は、兼続、お前に任せた。」
「うむ三成!それこそ義だな!」
「ごちゃごちゃ言ってないで早く出るぞ!左近、お前は休んでいろ!秀頼さまは我らが勇姿をとくとご覧あれ!輝元どの、秀頼さまをお頼みする!」
早口で言い、馬に乗っかる。兼続は三成の姿にうんうんと頷き、こちらも馬上の人となった。
「輝元どの。そなたの役割はここで本陣を守ることです。軽挙妄動はお控えなされ。死にかけではありますが、鬼の左近もここに残っておりますれば、もしもの時はその命覚悟なされよ。」
半分脅しである。秀頼を人質に西軍を寝返ればその時は…ということであろう。兼続を輝元の側によこした幸村は、あながち間違っていなかったのである。
二人が前線へと到着した時、既に伊達との戦いは始まっていた。幸村が少ない手勢をたくみに操り、伊達と渡り合っていたのである。伊達の兵たちもこの場に来て秀頼の存在を知ったようだが、豊臣恩顧の者たちのように無条件に豊臣を慕っている者たちではない。敵ならば踏み潰せばよいだけのこと、と、政宗の念が乗り移っていた。
「ふん!幸村、なるほど、流石真田の策!負けを引っくり返すとはな!だがわしが来た以上、東軍は勝つ!」
「お褒めに預かり恐悦至極にございますれば。まさか、長谷堂城については片倉どのに一任されているとは、この幸村、考えも及びませんでした。」
「よう言うわ幸村!貴様とて同じであろう!秀頼を担ぎ出すとは、それこそ誰もが予想だにしなんだぞ。まっこと、西軍には勿体ない人材じゃ!」
戦の空気を楽しんでいるような二人の会話である。何かと通じるものがあるのだろう。二人の顔には笑みすら浮かんでいた。
「嬉しいことを仰いますな。されど、此度ばかりは私も譲れませぬ。政宗どの、あなたは負けまする。情報戦は私の勝ちですね。」
幸村の言葉に引っ掛かりを覚えた政宗だが、それを問う前に三成たちも伊達に攻撃を仕掛けてきた。会話を楽しむ所ではない。だが、三成たちが出撃したということは、本陣には秀頼とそれを守る輝元しかいないということである。確かに毛利の軍は手強いが、それ以上に名の聞こえた将がそこを責める手はずになっている。
「結城どの、今ぞ!」
政宗の声が届いたわけではないだろう。だが、戦の機を読むことに長けた二将の判断は見事に合致していた。今まで伏せていたのだろう、結城秀康の軍が本陣付近に姿を見せた。
「わしは囮じゃ、馬鹿め!秀頼もろとも、本陣を踏み潰してやるわ!」
「情報戦を制したのは、やはり私の方ですね、政宗どの。」
幸村は余裕を崩さない。流石の政宗も幸村の様子に一抹の不安を覚えたのだろう。秀康の軍へと目を向けた。だが秀康の軍はその場に佇むばかりで、本陣に攻め寄せる様子は全くなかった。
「人選を誤りましたな。結城どのに秀頼さまは討てませぬ。父の危機に駆けつけたものの、相手が秀頼さまでは、その槍の先を見失うというもの。」
結城秀康という人物は家康の実子であるが、後継者争いから早々に外された男であった。また、一時期、秀吉の養子となっていたことから、どちらかと言えば豊臣寄りの人間であった。秀頼を弟のように思っており、常々秀頼に同情をしていた。そのような男が、父の為とは言え槍を向けられるはずがない。これが幸村に情報戦を制した、と言わしめた理由である。もしこの場に秀頼がいなければ、武勇名高い秀康率いる結城軍に本陣は踏み潰されていただろう。
政宗は舌打ちをするや、撤退する姿勢を見せた。あくまで狙いは本陣であり、真田、石田の兵を相手に本気で挑みかかるつもりはなかったからだ。幸村は、あえて政宗を追おうとはしなかった。ただ、子どものようににこにこと、この勝利を喜んでいるようであった。奴にとっては戦の駆け引きこそが遊びなのであろうな。政宗はちらりとそう思った。が、背を向け外聞もなく逃げ出す伊達の軍に、不快な声がぶつかった。政宗は一気に顔を曇らせる。
「山犬め!まだ負けもせぬうちから逃げ出すとはな!」
「うるさいわ義狂いめ!退くも策の内じゃ!」
「負け惜しみにしか聞こえぬがな。」
「先程まで押されていた人物がよう言うわ。退くことも出来ぬ愚か者めが!」
その時である。突如として、それは現れた。小早川が抜けた今、もぬけの殻となった松尾山に、きらびやかな一軍が姿を見せたのである。どんどん!と太鼓が鳴り、どこからか笛の音も聞こえる。その音に合わせ、歌を歌い出す始末である。更には今まで沈黙していた大筒が、突如上空へと打ち上げられた。戦はその集団の出現で止まってしまった。誰もが松尾山へと目を向けている。絢爛豪華と言われる伊達の軍よりも更に磨きをかけ、鎧には金が惜しげもなく使われている集団であった。旗指物はない。だが、馬上の人物が身につける、あの兜には誰もが見覚えがあった。孔雀の羽のように広がる、光が差す様を表しているようにも見える、あの兜である。
「こぉら、おみゃ〜ら!いつまでも戦をしとるでねぇ!わっしゃ、おちおち寝てもいられんわ!」
豊臣秀吉、その人であった。