最早、戦どころではなかった。亡くなったとされていた秀吉は生きていたのだ。その隣りには、ねねの姿も見受けられた。子どもの悪戯が成功したような表情である。三成たちは、瞬時にことの次第を悟った。秀吉の死を隠し通せのは、ひとえにねねの働きあってのことであろう。秀吉の葬儀をひっそりとしたものにしたのはねねの進言であったし、また秀吉の葬儀を全て取り仕切っていたのもねねである。また、秀吉には優れた忍びがいない、という先入観から、大掛かりな仕掛けは無理だと無意識に思わせていたことも、ことが露見しなかった一つの要因であろう。死を偽るには、忍びの協力が不可欠であるからだ。秀吉の墓を暴こうとした人物がいないとも限らぬ。そう仕向けた大名がいないとも限らぬ。だが、そういった輩をねねたち忍び集団は全て討ち取ってきたのであろう。壮大な計画である。
豊臣恩顧と呼ばれる将は、まるで神を仰ぎ見るように秀吉を見つめた。彼らにとって、秀吉は神であった。埋もれていた才能を見出し、戦場で采を取れる程にまで育てたのは、秀吉でありねねであり、豊臣家そのものであったからだ。
三成は既に言葉を失い、無心に秀吉を仰ぎ見ていた。秀吉が亡くなり、自分はどれ程の苦労をしただろう、どれ程の迷惑をこうむってきただろう。だが、三成はそのようなことを今この場では思いつかなかった。生きておられた、あの秀吉さまが、ああ生きておられた。思うことは、そればかりである。
既に戦は止まっていた。秀吉、ねねは西軍東軍関係なく皆を集めて、さながら説教をするかのように、ずらりと正座をさせていた。今まで血みどろの戦いをしていた者たちが一堂に会している光景は、中々に滑稽であった。
「こりゃ、三成!内府どのに戦仕掛けるたぁ、なんちゅう命知らずじゃ!」
「そうだよ。もうあたしははらはらして、見ていられなかったよ!」
「正則、お前もじゃ!秀頼守らにゃならんお前が、内府どのの甘言にまんまと乗せられおって!」
「三成とは仲良くしてあげてって、いつも言ってたでしょう?もう、みんなあたしのお説教ちゃんと聞いてた?お説教のし直しだよ!」
「内府どのもお人が悪い。正則は腕っ節は強いんじゃが、どうも頭の方がからっきしでのう。」
「更に三成とはこんな調子でしょう?お前たちは、豊臣を助けたいのか寿命縮めたいのか、どっちだい?」
厳しい二人の言葉に、皆もたじたじである。三成は何度も反論しようとしたが、その都度ねねの目に気圧されて口を噤んでいた。あらかた言いたいことを言い放ったのであろう。秀吉は一同を見渡し、おや?と首を捻った。
「なんじゃ、幸村はどこ行ったんじゃ?」
「あれま。本当にどこ行ったんだい、あの子は。これから幸ちゃんの武勇を面白おかしく語る場面なのに。折角の主役が居ないんじゃあ、つまんないよ。」
三成と兼続は顔を見合わせるが、二人は幸村の居場所を知らなかった。実は幸村、二人が姿を現したその混乱に乗じて、馬を走らせある人物の許へと駆けていた。三成も兼続も知らぬのは当然であろう。幸村はその先を誰にも告げていなかったし、幸村自身、衝動のままに走り出していたのだ。幸村ですら、己の衝動に戸惑っていただろう。
だが、そこは優れたねねの忍びである。いつの間にやら幸村の姿を発見したらしく、こっそりとねねにだけ耳打ちをした。ねねはその報を聞くや、驚きと喜びが混じった声を上げ、にこりと笑った。秀吉にだけ、ただ一言を告げる。
『お前さま、近いうちに、めでたいことがあるかもしれないよ。』
ねねの言葉に秀吉は理解できていない様子だったが、訊ねようとするも、乙女の秘密!と言われるばかりであった。秀吉は首をかしげながらも、ねねの嬉しそうな様子に顔を緩ませるのだった。
さて、幸村の行き先である。幸村は今、三成の本陣とされていた、今は怪我人ばかりが残された場所へ向かっていた。左近のもとへ、駆けていたのである。