幸村が左近の元へと到着すると、左近は力尽きたように眠っていた。傷が悪化したようで、左近は発熱していた。幸村はすぐさま手当てへとかかった。幸村自身も疲労していたが、そのような弱音は言ってはいられぬ。今も、甲斐甲斐しく左近の額の布を代えている。


 幸村は左近の姿を見ながら、今までのことを思い返していた。好きだと自覚してしまった以上、もう目を背けてはいられなかった。いつかは忘れてしまうだろうと思っていた想いは、次第に膨れ上がるばかりであった。幸村は己の変化に戸惑っていたし、武士としてこのままではいかぬ、と思っていつも槍を奮っていた。だが、どのように吹っ切ろうとしても、思い通りにはいかなかった。幸村は、己が女になっていくのだと悟った。そう悟った時、幸村は泣いたが、それも仕方のないことだと割り切ることに決めた。幸村自身、己の性別を偽ることに限界を感じていたからだ。この戦が終わったら、この槍を置こう。もう偽ることをやめよう。父に身の振り方を委ねよう。そう思えばこそ、思い切った策を実行できたのである。幸村は左近が訪れたあの日から、女の着物を着、密かに大坂城へ潜入していた。見目は女官にしか見えなかったであろう。そうして密かに淀の方に近付き、うまく取り入ればもしかしたら、秀頼公出馬が実現するかもしれぬ。幸村としては賭けであった。淀の方が自分を気に入るかは分からぬ。また、そうなったとして、相手はあの淀の方である。説得できるとは限らぬ。それ以前に、幸村が身分を偽って仕えていることが露見してしまうかもしれぬ。中々に危険な道であったが、幸村は己を活かせる方法はこれしかないと思っていた。また、同性からの説得であれば、と思うところもあった。よもや、己でもうまくいくとは思っていなかったのだが、結果、毛利輝元を動かし、秀頼公をここ関ヶ原へと出陣させた。幸村の策は成功したのだ。何を隠そう、浅緋(うすあけ)こそ、幸村が変装した女官の姿であった。


「本当に驚いたよ。あの幸ちゃんが、まさか女官として大坂城に潜り込んでくるなんて。」
 ねねは、まるで世間話の気軽さでそう言った。ちなみにねねの周りに集められているのは、幸村が女子であることを知る面々ばかりであった。兼続は幸村らしい大胆な策だ!と笑っていたが、三成はまた危険なことを…!と皺を寄せている。ねねは種明かしをしたくて仕方がないらしく、始終機嫌が良かった。
「ちょ〜っと目立ち過ぎてたけど、あれぐらいやらないと、淀ちゃんは説得できないだろうし。まったく、幸ちゃんには驚かされてばかり。三成も幸ちゃんに感謝しなさい。あの子がいなけりゃ、お前は死んでたかもしれないんだよ。本当ならもうちょっと早くに来る予定だったのに、遅れちゃったし。西軍助けるつもりだったのに、幸ちゃんのせいであたし達の活躍の場が半減だよ。」
 それでもねねは楽しそうに語った。
「さてさて、幸ちゃんは今頃どうなってるかねぇ。三成、兼続、お前たちもちょっと覗いてこないかい?」
 幸村の行方を知らぬ二人である。当然ねねの言葉も理解できなかったが、ねねを目の前に断れる人物など早々居ない。半ば強制に、二人はねねに連れられるのだった。


 幸村は左近の額に乗せた布を冷えた水ですすぎ、再び額へ乗せた。既に何度目か分からぬ繰り返しである。苦しそうに歪んでいた顔も、痛みが多少は引いてきたのか今は穏やかであった。まさかこのまま死ぬような人ではない、と幸村は思っていたが、中々目を覚まさぬゆえ、段々と不安を覚えるのは仕方のないことでもあった。幸村が左近の看病を始めて、どれ程の時が経っているだろうか。一刻、二刻か。それとも四半刻にも満たぬ時間か。既に時間の感覚は麻痺していた。早く目覚めてくれ、と一心に祈るばかりである。幸村はじっと左近の顔を見つめた。先程まで左近にぶつけるべき言葉を考えていたような気もするが、今はそんな考えなど吹き飛んでいた。早く、目を覚ましてくれないだろうか。幸村が思うことは、そのこと、ただ一つである。

 ぼんやりと左近の顔を見つめていた幸村の耳が、僅かな呻き声を拾った。左近の声である。幸村が身を乗り出して左近の顔を覗き込むと、ゆっくりと開けられた左近の目と視線がぶつかった。その瞬間、幸村は物言えぬ生き物になってしまった、かけるべき言葉を失ってしまった。左近は咄嗟の状況が把握出来ていないのか、幸村に視線を向けながらも辺りに気を配っている。しかし何分、寝かされたままの体勢では不便である。上半身を起こそうと力を込めたが、うまく力が入らないようだ。
「、悪い、手を貸してくれないか。」
 掠れた声である。幸村は弾かれたように
「はい!」
 と返事をし、身体を支えてやった。いつ目覚めても良いようにと置いていた水差しを左近に手渡した。左近はそれを受け取りつつ、じっと己を見つめたまま動かない幸村に、
「俺の顔に何か付いてるか?それとも、しぶとい奴だと呆れてるのか?」
 と茶化した。幸村は左近の声に、途端顔を歪めた。
「こういう時、女であることが嫌になります。感情がうまく制御できません。あなたが生きている、そんな些細なことで、涙が出そうになります。」
 幸村は多くの戦場を渡り歩いてきた。人の生死は、だからこそ慣れねばならぬものであった。泣いてばかりでは、槍を奮うことは出来ない。
「慣れたのだと、思っていました。だから、あなたが撃たれたと聞いても、怪我を負ったのだと聞いても、動揺はしませんでした。でも、」
「慣れる必要はないだろう。誰だって、生きてりゃ嬉しいし、死んじまったら悲しい。泣きたかった、泣けばいい。」
 左近はそう言って、重い腕を持ち上げ幸村の頭をくしゃりと撫でた。
「幸村、悪いな。心配かけた。」
「左近どの、」
 今まで耐えてきたものがあったのだろう。幸村は左近の言葉に顔を覆ってしまった。左近は苦笑しながら、幸村の髪を撫でる。目の前には、ただの女と化した幸村が泣き濡れていた。時折鼻をすするような音が、その手の平から漏れる。幸村の豆だらけの手の平では涙を拾いきれず、そのすき間からぽたりぽたりと雫が垂れていた。きれいな涙であった。幸村が、こうして涙を流している幸村が、何よりも愛しく思えた。
「殿に聞いたんだが、あんた、恋い慕ってる人がいるんだってな。」
 幸村は呼吸を詰めた。それは左近のことであり、過去のことであり、彼らの誤解であり、けれども今となっては三成たちの誤解こそが真実であった。幸村は言葉を失った。言い募ろうと手を外し、顔を上げた。そこへ、左近の手が伸び幸村の涙を拭った。左近は穏やかな表情で幸村を見つめていた。
「聞いた時は嘘だと思った。殿の勘違いだと、そう思った。」
 そうだ、そうなのだ。そうあるべきだったのだ。けれど幸村は頷けなかった。左近の声が、まるで幸村の心情を悟っているように錯覚したからだ。涙を拭う手付きは、優しかった。
「俺の勘違いでもいい。俺の自惚れでもいい。俺はあんたをかわいいと思った、愛しいと感じた。そして何より、大切にしたいと、守ってやりたいと、そう思った。」
 左近はそう言って、拭っても拭っても溢れる幸村の涙をすくい上げる。幸村は目を見開き左近の言葉を聞いていたが、その言葉の意味を理解したのか、途端顔を伏せてしまった。嗚咽の合間、途切れ途切れに言葉を告ぐ。
「…うそ、です。同情です、そんな…ッ、」
 左近の声は優しかった。幸村は、左近の言葉に偽りがないことを知っている。空気がそうだと告げている。何よりも、昔に共有したからこそ伝わる雰囲気が、本心であると嘘偽りなど言っていないと、幸村の心を揺さぶった。先程とは違う涙を流す幸村が落ち着くまで、左近はその涙を受け止め続けた。やがて、波が去った幸村がゆっくりと顔を上げ、左近の目を見つめた。

「なあ、幸村、」
 どれ程時間がかかっただろう。たった一言。この一言に、どれだけの人が振り回されたことであろう。けれど幸村は、真摯に左近を見つめている。想いは同じであると、あたたかな感情が自然と胸に伝わった。
「俺と一緒になってはくれないか?」
「左近どの、遅いですよ。本当に、」
 本当になあ。左近はそう心の中で呟いた。幸村は涙で目を赤くしながら、にこりと左近に微笑んだ。その笑顔は、左近が出会ったどの女性よりも美しかった。
「喜んで、お受け致します。」
 こうして、紆余曲折の末、二人の心はようやく繋がったのだった。




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