その場には清正が木材を割る鋭い音だけが響いていた。片肌を脱いだ清正は、作業がしやすいように簡単に裾をまとめ上げている。羽柴家が大きくなるにつれて、礼儀作法だ衣裳だ言葉遣いだと家臣たちを注意するようになった、羽柴家の母・ねねが見れば、まず叫び声を上げるだろう格好だったが、この場には幸村以外の人影がない。そもそも、元々は半裸に近い格好で戦に出ていた身分だ。それが、面倒臭い礼の取り方だとか、衣や袴を着こなし方だとか、見栄えのする仕草だとか言われたところで、早々身に付くはずもない。慣れぬことばかりなのだ。流石に正式な場で駄々を捏ねたりはしないが、着慣れていないせいか、着物に着られている気のある清正だ。それに反して、清正の側の適当な段差に腰掛けてこちらを眺めている男は、ただの薄茶の着物を町人風に着ているだけなのに、どこからどう見ても武家のお坊ちゃんだった。袴を着けているわけではないし、座り込んでいる姿勢だって、随分と足を崩している。それなのに、彼の纏う凛と引き締まった透明度の高い空気が、そう思わせるのだろう。若竹の瑞々しさとでも言おうか。彼の纏う空気は澄んでいて、主が自分たちに求めるのはこういうことではないだろうかとすら思う。動作の一つ一つが一々見栄えがいいのだ。
「器用なものですね」
彼は纏う空気に似合わぬ、のんびりとした声を発する。清正は、一体どちらの姿が正しいのだろうと正直戸惑うのだが、幸村は気付いた様子はなかった。
「こんなもんは慣れだ、慣れ。あんたが音もなく襖開けられるのとおんなじだ」
「そうでしょうか?」
幸村は小首をかしげる。清正は手を止めてその仕草を眺めてから、ああそうだ、と頷いた。木材の山もそこそこにこじんまりとしたものに変わっている。一旦休憩をしようと、清正もその場に腰を下ろす。幸村も作業の中断に気付いたのか、清正に駆け寄った。懐から差し出された手ぬぐいに一瞬躊躇ったものの、それを受け取った。彼が目に巻き付けている包帯と同様に、新品のように真っ白だった。
「わたしが出来ればいいんですが」
「気にするなよ。時間を潰すんなら、身体を動かしてる方がいい。俺はあの頭でっかちみたいに引きこもりじゃないんでね」
頭でっかち?と幸村が鸚鵡返しに問えば、三成のことだ、と清正は苦々しく告げた。それを最初に言い出したのは正則だったが、すっかり清正にもうつっている。更に言うなら、正則・清正と親しい者には共通のあだ名である。もちろん、好意のあるあだ名ではないが。
「そういうあんたこそ、ここに居てもつまらないんじゃないか?俺は話し相手には向かないからな」
そんなことはありませんよ、と幸村は笑う。出会ってからまだ数刻しか経っていないというのに、こうして他愛ない談笑が出来る相手というものは初めてだった。
「正直、わたしもあまりすることがありませんので。それに木を切る音が、なんとも心地良かったものですから。お上手ですね」
情けない話だが、清正の近くには非常に出来る男がいるせいで、あまり面と向かって褒められたことがない。慣れないことを言われて、照れくさいやら恥ずかしいやら。清正は僅かに顔をそらして、ついでに話題もそらそうと無理矢理に話を振った。
「器用っつうんなら、あんただろ。俺がどこに居るのか、どうやったら分かるんだ」
「声の聞こえた方だとか、大きさだとかで、何となくは。大体は、そうですねぇ、勘、でしょうか?」
「…あんた、そればっかだな」
思わず、清正が笑う。人材集めから育成が好きな主の周りには、色々と特殊な人間が揃っているが、彼らと比較しても幸村は随分と変わっていた。彼が家臣であったのなら、さぞかし気に入ることだろうな、と清正は思う。いや、もしかしたら既に彼は秀吉に可愛がられていて、秀吉お気に入りの軍師の側で勉学に励まさせているのだろうか。その想像は案外にしっくりと来て、清正の心を楽しくさせた。昔から、周りを驚かせることが好きな主なのだ。
ぽつりぽつりと降り出した雨は、すぐに土砂降りの様相に変わった。屋根があると言っても簡易なもので、強い雨脚に水が漏る始末だった。清正は諦めて作業をやめると、幸村の腕を引いて屋敷内に避難した。縁側という程立派なものではないが、腰掛ける高さとしては丁度良い段差だった。だらしなく胡坐をかいてその上に肘を付く格好の清正とは違い、幸村の背筋はぴんと伸ばされており、行儀良く正座した太腿の上に手が置かれていた。これが育ちの違いというやつだろうか。
「予想、当たったな」
「よかったです。これで三成どのへの嘘もまことになります」
「別に気にする必要はねぇと思うけどな。予想は予想だ。外れることもあるだろう」
「…わたしは臆病者なんです。心証を悪くしたくはなかったものですから」
幸村は僅かに首をひねって清正へと顔を向けたが、ごろごろと唸り出した雨雲に、すぐに顔を元の位置に戻してしまった。分厚い雨雲の中では、時折紫色の筋が行き来している。
「…少し、近いな。中に入るか?」
「いいえ、いいんです。雨の日はこうして雨音を聞いていることの方が多いですから」
「雨が好きなのか?」
幸村は考えるように少し沈黙した後、ゆるゆると首を振った。ちゃんと手入れされている黒髪が、彼の仕草と共に揺れている。決して、女々しいだとか、頼りないだとか、そういった様子は感じられなかったのだけれど。どこか彼の言葉はちぐはぐで、彼の纏う空気と彼が吐き出す声の調子の温度差には違和感があった。
「どちらかと言えば、雨は嫌いです。でも、これは戒めですから。ですから、わたしは忘れてはいけないんです」
あっ、雷は止んだみたいですよ。きっと上がるのももうすぐですね。
清正が口を挟む間を与えず、幸村は変わらぬ調子で空を指差した。今更、彼の言葉の意味を訊ねることも出来ず、清正は彼の言に頷くしかない。幸村の言う通り、雨脚も段々と弱まりつつあった。もうぽつりぽつりと屋根を叩く音が聞こえるだけで、先程の勢いはなかった。
「そろそろ戻りましょうか」
幸村が先にそう言って立ち上がった。清正も短く相槌を打ちながら、それに倣う。
「薪割り、やりっぱなしになっちまったけど、いいのか?」
「手の空いている者に片付けさせます。皆、喜びますよ。あれは中々重労働ですから、いつも後回しにされているんです」
幸村は首をひねって、清正が無造作に築き上げた薪の山に顔を向けた。確かに、大きかった木材の山は一回りも二回りも小さくなっていたが、まだそこに積んであった全てを片付けたわけではない。中途半端な形となってしまったことが、清正にとっては少し居心地が悪かった。
「まだ少し残ってるけどな」
「ですが、当分は困らないと思います。お客人にさせることではなかったのですが、助かりました。本当にありがとうございます」
言いながら、幸村は深々と礼をする。ぴんと伸びた背筋や、腰を折る角度は、まさに礼の手本のようだった。清正は慌てて彼の肩に手をやり、彼の上半身を半ば強引に持ち上げる。先の居心地の悪さ故の無意識の行動だったが、丁度、驚いた幸村が顔を上げたところで目が合った。いや、目が合ったというよりも、顔と顔の位置が同じぐらいのところにあった、というべきだろうか。近いのだ。清正も中々に警戒心の強い人間だ。この距離は、今日初めて会った人間に許容していた近さを明らかに飛び越してしまっていた。清正の経験談から例えるなら、正則と喧嘩をして睨み合った近さが、この距離に一番近いような気がする。要は近すぎるのだ。
「俺がしたくてしたんだ、気にするな。それに、全部終わってねぇし」
内心の動揺を隠して彼の肩から手を離し、ついで距離も取りながら、清正はそう言った。
「ですが…、」
「だから、また来る。任された仕事が中途半端ってのは気に入らねぇし、やる奴もあんまりいないんだろ?あんたが無茶しないとも限らないしな。だから、近い内に、また来る」
何も考えなしに口から飛び出た言葉だったが、一度言葉にしてみれば、案外にいいことなのかもしれない、と清正は思った。三成ほどではないにしろ、清正もそこそこ律儀の人であったし、それ以上に幸村との繋がりがここで切れてしまうのは、何とも惜しいことに思えたからだ。
「あと、手拭いもちゃんと洗って返したいしな」
「差し上げます。そんな、大したものではありませんし」
「これはただの言い訳。約束だ、またあんたに会いに来る。あんたも暇なんだろ?生憎、俺もそこまで忙しいわけじゃないからな。暇潰しに丁度いいじゃねぇか、お互い」
清正はくしゃりと幸村の頭を撫でる。全くの無意識の行動であった。清正は己の行動を誤魔化すように、行くぞ、と先に足を踏み出す。遅れて幸村の足音が続いた。
「約束、ですか」
「ああ約束だ」
思わず振り返った先、幸村は顔を伏せてしまっていた。背丈にそう変わりはないせいで、彼が顔を俯けてしまえば、清正からその様子を伺うことはできない。そもそも、彼の顔を覆っている包帯のせいで、彼の表情を読み取ることは至極困難であったけれども。
「そう、ですか」
だから幸村の声がどこか苦しげに感じられても、清正はその真偽を確かめる術はなかった。苦し紛れに清正が彼の名を呼べば、なんでもありません、と幸村はようやく顔を上げた。それは、はっきりとした拒絶だった。自分の立ち入る場所ではないと察した清正は、それ以上の詮索はしなかった。雨はすっかり上がっており、先の土砂降りが嘘のように、降り注ぐ陽が水面に反射してきらきらと輝いていた。