雨が屋根を叩く音に気付いて、三成は紙面に落としていた顔を上げた。激しい雨音は彼の言葉の正しさを証明しているようで、無意識に舌打ちが飛び出した。三成は人の勘だとか、経験上の感覚だとか、そういった根拠のないものを信じない。そのまま悪態が口から出てしまった。三成はため息と共に書物を閉じた。確かに雨音は激しさを増す一方だったが、読書の邪魔になる理由にはならなかった。ただなんとなく、集中が途切れてしまったのだ。
 書物は幸村が言う通り、てんでばらばらに積まれていた。時間と収納する棚があれば三成も嬉々として整理しただろうが、棚に入りきらなくなった書物は無造作に積まれていて、明らかに収納容量が足りていない。帰ったら秀吉に伝えて棚を増設するよう進言しよう、と考えてから、自分には関係のないことだと気付く。そもそも、この保存の仕方からして、いらなくなった書物を無理矢理に空いている部屋の一室に放り込んだようにしか見えない。確かに興味がない者にとってはただの紙束であるし、半兵衛はあれで天才軍師の名を欲しいままにしている人物だ。おそらくは一度読んだ書など頭に入ってしまうのだろう。その中に歌物語があることは、どうしても苦笑してしまうのだけれど。それよりも三成を驚かせたのは蔵書の量ではなく、あの青年がここにある本に目を通していることだった。目を通すと言うのは正しくないが、ところどころ指で強く擦りすぎたのか、薄っすらと墨が引き摺られている跡があった。あの男は、本当にそうやって本を読んでいるのだと知り、何故だか胸の辺りがざわざわとした。何故半兵衛はあの男を近くに置いているのだろう。目が見えぬとは言え、数年前までは敵国に仕えていた男だ。あの立ち居振る舞いからして、相当しっかりと躾されているに違いない。戦場に立てばその若武者姿は映えただろうに。実際見たことがなくとも、すっと伸びた彼の背筋の潔さは、それを連想させるに容易い。そんな彼が失明をして、周囲の落胆は如何ほどのものだったろう。ふとそんなことを考えてしまって、三成は慌てて頭を振った。自分には関係ないことだ。

『既に主家はありませぬゆえ』

 幸村の声が唐突によみがえり、三成は困惑した。確かに、その言葉を聞いた瞬間、三成は彼にどう接してよいものか躊躇ったのだ。今日初めて会った人間に、そうして心を砕こうとしている自分がいることが分からなかった。そういった心遣いが出来ぬのが三成であり、それは己も自覚しているところだった。彼は決して落ち込んでいるわけでも、悲しんでいるわけでもなかった。声の調子に変化はなく、けれども強がっているだとか平静を繕っている風でもなかったように思われた。己に初対面の人間の取り繕いに気付く敏さがあるかは、また別の問題ではあるけれども。あの男は、どういう想いであの言葉を吐いたのだろう。頭の隅にどんと居座ってしまったしこりに、もう読書に集中できそうにないと気付いて、三成は舌打ちと共に立ち上がったのだった。




 読書を中断して向かった先は、半兵衛の部屋だ。約束を反故にされる心配もあったが、それ以上に彼に問い詰めたいことがあった。元々真意が読めない人ではあったが、このままでは据わりが悪い。石田三成という男は根っからの不器用で、心に引っ掛かることができてしまうと、途端他のことに集中できなくなる性質だった。以前も仕事をしている最中、ふと文献の一文が脳裏を過ぎったのだが、それが何に書かれていたのか、その先がどう続いているのかを度忘れしてしまい、仕事は手に付かず、結局諦めて徹夜で書庫をあさったこともあった。とにかく、煩わしいものがあるのは嫌なのだ。

「半兵衛様、準備は進んでいますか?三成ですが、お邪魔してもよろしいでしょうか」
 言葉の上では決して失礼に当たらぬ物言いなのだが、三成の声は相変わらず険が強い。左近曰く、顔は整っているのだがそれ以外の全てが無愛想なのだ。
 そういう三成の性格を知る半兵衛だ。襖の向こうから、入っていいよー、といかにものん気な声が返ってきた。三成は思わず眉を寄せながら、襖に手をかけた。中の光景に更に眉間の皺が増えることになったが、半兵衛は相変わらず機嫌が良さそうな、人を食ったような笑顔を湛えていた。

「何故まだそのような格好をなさっているのですか!!」
 半兵衛の姿に、三成は思わずそう怒鳴りつけた。雨が上がれば出立すると言っていたにも関わらず、彼はまだ寝巻き姿で寝転がって書物を読んでいた。半兵衛も三成の反応は予想していたのだろう、ああもううるさいなあと言いたげに、耳を押さえている。
「出掛けるまでにはちゃんと着替えるよ。こっちの方が楽なんだもの、まだいいでしょー?」
「準備をしているようには見えませんが」
「入用なものはちゃんと支度してもらってるよ?あとは俺がくっ付けばもう完璧」
「でしたら、早く準備なさってください」
「だから、まだ雨は上がってないし、いいじゃない。どうせしばらく帰ってこられないろうし、最後のぐーたらを味わってたいの」
 半兵衛は言いながらごろりと寝返りを打った。本は放るように枕元に置かれた。この乱雑な扱いが幸村にもうつったのだろうか。
「それで?俺に話があって来たんじゃないの?」
 彼の姿勢は決して話をするような体勢ではない。掛け布団は放り出されているが、その身体は布団に寝そべっていて、逆さまに三成の顔を眺めている。三成はその一つをとっても不満だったが、この軍師に何を言っても無駄なことは重々に承知している。無言の抗議と共に後ろ手で襖をしめた。習った作法をまるで無視した所作だったが、半兵衛がそれを咎めることはなかった。

「何故あの男を俺たちに紹介したのですか」
 三成は忌々しそうに口を開いた。人に教えを乞うこと自体が好きではないのだ。頭が切れるせいで大概のことは他人の手を頼らずに自分で片付けることが出来てしまう三成は、人にものを訊ねること自体が不慣れだ。半兵衛はその一言で三成の不機嫌を覚ったようで、余計に居心地が悪かった。
「あー、まあ色々理由はあるんだけど、一番は自慢かなあ」
「…意味が分かりません」
「俺の後を継ぐ子は、こんなにも出来がいいんだぞ、可愛いだろう、って、ずぅっと思ってて、それを誰かに自慢したくて、見せびらかしたくてたまらなかったから」
 頭の痛くなる言い分である。三成は本日何度目になるか分からないため息を盛大に吐き出した。自分が聞きたかったのは、そういった彼の個人的感情ではないのだ。
「幸村には俺の軍略の全てを継がせようと思ってる。それが可能な子だよ。家も名前も分けてやることはできないけどね」
「…御子息がおられます」
「うーん、確かにいい子ではあるんだけど、あれでは駄目だよ。それは三成、お前も分かってることだろう」
 同意を求められて、三成は口をつぐむ。半兵衛の息子に面識はあるが、正直、彼に半兵衛の全てを受け継ぐ器量があると訊ねられれば否であった。決して愚鈍ではないのだけれど、半兵衛という存在はそれほどまでに大きいのだ。だから半兵衛も、あまり息子を構いたがらない。おそらく、あまり戦の知識については教え込んでいないのではないだろうか。
「その代わりが真田幸村、ですか」
「代わりじゃないよ。本当は誰かに明け渡すつもりなんてなかったし。あの子に知り合って、ああ彼なら俺の全てを継いでくれるってね、三成の大嫌いな直感ってやつ」
「秀吉様の小姓たちでは不足でしたか」
 少し、恨めしい声が出てしまった。知名度は低く、正直三成からして見れば、どこの誰とも知れぬ男だ。そんな男よりももっと相応しい人物が居るのではないかと、三成は思う。人材育成が趣味のような秀吉だ。主の周りには、本当にたくさんの人材が溢れている。その中に半兵衛の御眼鏡に適う人物がいなかったのだと言外に言われたような気がして、思わず態度が硬くなった。半兵衛は答えなかった。それが肯定であることぐらい、三成も分かる。秀吉から覚えめでたい自分や清正ですら、半兵衛にとっては素質がないだと言われた気がして苛々する。あの男のどこに、自分たちは劣るというのか。

「三成、こればっかりは素質だよ。幸村は丁度良かった。ただそれだけだ」
「納得できません」
「納得できる答えはないしなあ、説明するのも面倒だなあ」
 本当にそう思っているのか、半兵衛はもう一度ごろりと身体の向きを変えた。うつ伏せになって、引き寄せた枕に顎を乗せている。どうやら彼は布団から起き上がるどころか、座るつもりすらないようだ。
「そもそも、あの真田幸村という男は一体何者なのですか」
 そう言えば、これが本題であったはずだ。訊ねるのに随分と無駄な問答をしてしまった。
「何、というのは曖昧だなあ。有り体に言えば、信州上田家の御当主・真田昌幸殿の御次男・源二郎幸村で、現在は俺の弟子として勉強中ってとこ」
「…設楽原では武田方として出陣していたと聞きましたが」
「うん。俺はそこで幸村に一目惚れして、彼を貰い受けたんだ。何ていうかなあ、幸村って、見てて清々しいでしょ?彼は、もののふとしての魂の在り方がとても高いところにあると思うんだ。あの空気はそう簡単には作れない。立ち居振る舞いを正しても、彼と同じにはなれない。初めて会った時、綺麗だなあって思ってさ。正直、彼だ!って思ったね」
 無茶苦茶な話である。いくら戦に勝ったからと言って、敵方として槍を振るっていた人物に声を掛け、あまつさえ手許に置いているなどとは。いつ寝首を掻かれるか分からない。むしろ存分にどうぞと言っているような状況だ。半兵衛の神経が全く理解できなかった。
「秀吉様はなんと?」
「もちろん知ってるよ。いつもの通り『半兵衛の好きにすりゃええ』ってお許しも頂いてるし、官兵衛殿もご存知」
 まさか官兵衛まで関わっているとは思っていない三成だ。無茶なことを仕出かす半兵衛と、その半兵衛の自侭にさせている秀吉だが、歯止め役として官兵衛が居ることも確かだ。その彼までもが、真田幸村という存在を許容しているという。
「寝首でも掻かれたらどうなさるのです。裏切られたら?出奔されたら?そういったことは容易く想像できるでしょうに」
 半兵衛はにんまりと笑って、お前はいつまで経っても青いなあ、と穏やかに言われてしまった。本来なら反論していて然りだが、彼の声の柔らかさはあまり体験したことのないもので、つい口を結んでしまった。秀吉の近くに居たからだろうか、半兵衛もこう見えて結構情が深いのだ。その恩恵のほとんどを三成は与えられたことはないのだが。
「あの子は裏切らないよ。もう裏切る必要がなくなってしまったから。あの子の唯一を俺たちが奪ってしまったから」
「それは一体、」
 何なのですか。最後まで半兵衛は言わせてはくれなかった。無言の笑みが三成から言葉を奪った。それはきっと、三成が幸村本人に訊かなければ意味がないのだろう。他人を介して知ることではない。
「それに、約束したからね。大事な大事な約束を」
 今度こそ、それは一体何なのですか、と訊ねようと三成は口を再び開いた。けれども半兵衛は、三成のその言葉すら見透かしていたのか、

「秘密だよ」

 そう言ってにんまり、清正曰く性の悪い笑みを浮かべて、三成の言葉を黙殺したのだった。










  

11/05/14