すっかり雨は上がっていた。幸村と連れ立って半兵衛の部屋を目指す途中、庭に面した廊下から、濡れた草木が陽の光を受けてきらきらと輝いている様が見えた。初めて見る光景ではないし、決して清正は情緒ある人間ではなかったが、綺麗だなとふと思った。思わずそう口に出しそうになって、幸村にはこの光景は見えないことに気付いた。勿体ないなと思う。彼の目がもし見えていたら、この景色に何を思い、どんな褒め言葉を紡いだだろうか。考えたことに、らしくないと幸村に気付かれないように苦笑した。




「ですから!何故そうなるのですか!!」


 穏やかな気分を吹き飛ばすには丁度良い、文字通りの怒号であった。聞き慣れたその声に、清正は反射で眉を寄せる。半兵衛の部屋の襖は閉じられていたが、その襖すら震わさんばかりの勢いである。当然幸村は驚いたらしく、足が止まっていた。初心者に彼の怒鳴り声は気の毒だろうと思った清正は、幸村を追い越して襖に手をかけた。滞留していた空気が解放されたことによって、三成の声量が更に大きくなったような気さえした。

「約束と違います!早く準備をなさってください!」
「えー、だって俺、疲れちゃったしー」

 怒鳴りつける三成の声にもどこ吹く風、半兵衛はけろっとしている。幸村のように口を挟むに挟めずに居るのが普通の反応だろうが、このような光景に慣れ切っている清正にとって、彼らの間に割って入ることになんら躊躇いはない。面倒だな、と思っているには確かなのだけれど。三成相手に尻込みをする程、付き合いが短いわけではないのだ。
「おい馬鹿、声がでけぇ。漏れてるぞ」
「うるさい!」
 仲裁というか、新たに喧嘩を売りに行ったような態度の清正にも、三成はもちろん噛み付いた。が、清正はため息一つこぼしてその声を相殺した。三成は三成で清正の態度に、更に眉間の皺を深くしている。
「お前がここで醜態をさらすのは構わないが、そう怒鳴り散らしていては話が先に進まん。俺は早く帰りたい。お前もそうだろう」
 そう正論を指摘すれば、頭に血が上りやすい三成も多少は冷静になるようで(ただし、それが清正の嫌味ともなると素直に表面に出すことは躊躇われるようだ)、咄嗟の反論はなかった。一応の制止に成功した清正は、ふんと三成に聞こえるようにわざと鼻を鳴らして、布団の上に胡坐を掻いている半兵衛に視線を移した。困ったことに、まだ寝巻き姿なのだ。出立の準備は出来ていないと思った方がいいだろう。
「半兵衛様、その格好は何ですか」
 部屋に上がり込みながら、清正が訊ねる。幸村も場の収束を察したのか、部屋に入って清正が乱暴に開け放った襖を丁寧にしめていた。相変わらず、所作に隙がない。
「俺の就寝時の格好」
 半兵衛の答えに三成の纏う空気に険が増えた。ついでに言うなら、清正も同様だ。彼のように思わず怒鳴らないのは、彼の怒号から何となく予想がついていたからだ。この物臭軍師が、最後の最後で約束をすっぽかす、というのは、決して想定外のことではなかったので。
「理由をお聞かせ願えますか」
 言葉はあくまで取り繕ったものだったが、清正の声はいっそ剣呑だった。ちらりと後ろを伺えば、幸村が場の空気に困惑しているのか、三人を交互に見つめていた。もし表情が見えていたのであれば、おろおろといった表現が似合ったろうか。
 そんな幸村の様子も何のその、半兵衛は飄々としていた。どうしてあんな真面目な奴が、こんな性悪軍師の元に居るのだろうかと疑問に思ったぐらいだ。
「最初はさぁ、ちゃんと行くつもりだったんだよ?でもさあ、三成と喋ってたら疲れちゃって。このところ調子良くって、ついは羽目を外しすぎたみたい。俺はもう寝たいから、出てってくれない?」
 いっそ清々しいほどに自分勝手な言い分だ。清正は、再び怒号を叫びそうな三成の口を強引に手で塞ぎながら、
「秀吉様の御命令ですが」
 と、反論する。三成は自分の言葉を奪われて、咄嗟に行動できなかったようだったが、自分の口を遮るのが清正だと気付いた途端、それは暴れた。清正より小柄な三成を押さえ込むのは決して難しくはなかったが、体格の割に意外にも力のある三成の本気の抵抗を封じるのは骨だった。黙ってろよ、と唸るように呟いて、清正は放るように三成を解放した。もちろん、まるで射殺すような視線を向けられたが、慣れている清正には何の効力もなかった。
「生憎と、俺はお前たちみたいな忠犬じゃないかならなあ」
「半兵衛様」
「冗談冗談。ちゃんと手紙も書いたから、秀吉様に渡しといてよ」
 半兵衛はそう言って面倒臭そうに立ち上がり、部屋の隅に置いてある文机の引出しから手紙を取り出した。いつの間に書いたのかは分からないが、三成が部屋を訪ねるより先に認めていたらしいことは分かった。再び問い詰めようとする三成に向かって、半兵衛は下心を感じさせる笑みをにっこりと浮かべて、その手紙を三成に差し出した。
「これを秀吉様に。みんなの前で読み上げるようにお伝えして」
「…一応、承知しました。ですが、秀吉様は、戦のことで相談したいことがあるとの仰せです。半兵衛様が居らねば困ります」
「ああ、そのこと。それなら大丈夫。ちゃんと手紙にも書いてあるから。俺の代わりも、ちゃーんと用意してあるから、ってね」
 代わり?と清正が鸚鵡返しに訊ねる横で、三成がまさか、と口を滑らす。にんまりと笑う半兵衛は、まさに碌なことを考えていない性悪軍師そのものだった。

「俺の代わりに幸村を連れて行っていいよ。幸村の実力は俺が保証する。幸村の言葉はそのまま俺の言葉だからね。そういうわけだから、幸村、頼んだよ」

 半兵衛の言に、清正と三成は同時に幸村を振り返った。三人の視線を感じたのだろう、幸村は居心地が悪そうに身じろぎしながら、はぁ、と気のない呼気を吐き出した。




 もしかしたら、最初からこうするつもりだったのでは、と勘繰らせる程、その後の半兵衛の手際はよかった。既に幸村の手荷物の支度は整っているらしく、幸村の着替えが終わるのを馬小屋で待っている状態だ。それもほとんど時間がかからず、初めに二人を案内してくれた女性を伴って幸村と半兵衛は現れた。山を下りるには馬に乗る必要がある。誰か供に馬の手綱を任せるのだとばかり思っていた清正は、思わず首をかしげた。けれども、清正の疑問は幸村に届かなかったようで、唯一繋がれている馬のたてがみを撫でながら、幸村は二人と話し込んでいた。
「あまり無理はなさらないでください。私もすぐに向かいますが、」
「そなたは心配性だな」
「心配性にもなります。幸村様はご自分のことが分かっていないのですから。本当に、色々と気を付けてくださいよ。人と関わることは良いことですが、幸村様はその、誤解されやすい性質ですから」
「すぐにそなたも来るのだろう?ならば何も問題はないではないか」
「そういうところが分かってないんです!本ッ当、妙なところで鈍感というか、鈍いというか、天然というか」
「あやめ、その辺にしてあげなよ。大丈夫だって。その為にあの二人に頼んだんだからさ」
 半兵衛は視線を清正たちに向ける。あやめと呼ばれた、幸村と親しいらしいあの女性もまた、二人を振り返る。その目は決して二人を信用しているようには見えなかったが、半兵衛の言に渋々頷いていた。

「半兵衛様、そろそろ」
 そう言って促したのは三成だった。彼にしてみれば、言葉を選んだ方だったに違いない。珍しく、これは雹が降るような確率で、三成が人の感情を慮ったらしかった。おそらくは、あやめのあまりの心配様を多少気の毒に思ったようだ。考えれば当然のことで、幸村は住み慣れた庵を出て、今日初めて会った人間と共に己の主に面会しようとしているのだ。それだけでも心配だろうに、彼は視界が全く利かないという障害を負っている。ならば同行させなければいい、とは思うものの、それでは秀吉への顔も立たない。更に言うなら、羽柴家軍師の命令を無視するわけにもいかなかった。幸村ともう少しだけ一緒にいたいという気持ちも、もしかしたらあったかもしれない。
「では半兵衛様、行って参ります」
「うん、気を付けてね。あ、それと、二人共、秀吉様への伝言、いいかな?」
 なんだろう、と二人揃って訝しげな表情を浮かべて半兵衛を見返した。うーん、やっぱり子どもの教育に悪い表情筋の使い方だよねぇ、と例によって失礼なことを呟いた半兵衛は、
「幸村は貸してあげるだけだからね。家の者も寂しがるし、あんまり長いこと居座らせると、俺直々に連れ戻しに行っちゃうかもね?」
 ならば最初から一緒に来られては?と清正は思ったが、それは思うだけに留めた。が、三成は思ったことをそのまま口に出してしまう性質のせいで、清正が思ったことをそのまま声に出していた。しかし半兵衛は、返答を寄越さなかった。腐っても天才軍師、物臭の性悪軍師は、笑みでその問いをさらりと流してしまった。

 二人が馬に乗れば、幸村もまるで見えているかのように慣れた動作で馬に跨った。本当に、このまま出立するのだろうか。下男が彼の馬を引くだとか、一緒に乗るだとか、そういったことをしないのだろうか。疑問に思って、清正は馬に乗ったまま彼に馬首を寄せた。
「お前、大丈夫なのか?」
 それだけの問いだったが、幸村は質問の意図を正確に読み取ったようで、清正が撫でようとしてもそっぽ向いてしまったあの栗毛を丁寧な仕草で撫でながら、
「大丈夫ですよ」
 と、言った。確かに馬には慣れているようだが、目が見えない状態での乗馬は誰だって心配になる。幸村はもう一度、今度はゆっくりと、大丈夫です、と頷いた。
「この子はとても優秀ですから。『あかつき』頼むぞ」
 心から信頼し合っているらしく、幸村が名を呼びながらたてがみをもう一度撫で付ければ、返事をするかのように短く嘶いた。
「あかつき?ああ、暁?」
「いえ、明るい月と書いて、明月です。頂いた方にそう名付けて頂きました」
 そうか、と短く相槌を打つ。彼の言を全て信用したわけではないが、何故だか大丈夫なような気がして来たから不思議だ。半兵衛も止める様子はない。きっと、大丈夫なのだろう、と何とも無責任なことを思ったが、幸村相手には丁度良いのかもしれない。
 歩き出そうとする三人に、半兵衛は何かを思い出したかのように声を上げて、幸村に近寄った。そのまま待って、と半兵衛が制止をかければ、幸村も手綱を握ったまま馬を動かさなかった。


「幸村、最後に一つだけ、

 約束、破っちゃ駄目だよ?」


 その言葉に、三成の背が揺れた。動揺を如実に物語っている。清正は思わずそちらへと視線を向けてしまったが、実は幸村もその言葉が紡がれた一瞬、僅かに息を詰めて動揺を押し殺そうとしていた。残念ながら、清正は気付かなかったけれども。小さな動揺を押し隠すように、幸村は短く、「はい」と硬い声を吐き出した。その声は半兵衛だけに届いて、すぐに消えてしまった。


 山道は馬で通行可能な程度には整備されているが、道自体は細い。行きはどちらが先を行くかで揉めたせいで、二人並行して馬を走らせていたが、安全を優先するなら一列の方が良い。先頭を清正、最後を三成、二人の間に幸村、というのが自然と決まっていた。三成には害はなくとも、三成より長身の幸村では伸びている枝で擦って怪我をしてしまう可能性もある。そういう邪魔な枝払いを兼ねてのことだ。
 清正がまず門をくぐり、それに幸村も続く。幸村の後ろ姿を眺めながら、彼は本当に目が見えないのだろうか、と思ってしまった程、彼は堂々としていた。戦場に居たら、彼の纏う衣服が鎧兜であったら、さぞ絵になったろうに。そんなことを考えていたせいで、少しだけ二人と距離が空いてしまった。三成も慌てて馬を急かそうと手綱を強く握ったのだが、それを止めるように、三成、と声をかけられて、三成はその場で馬を制止させた。半兵衛の声だった。先の二人には半兵衛の声は届かなかったようで、更に二人との距離が開いてしまった。三成は舌打ちをしながら振り返り、手短にお願いします、と三成は無愛想に告げた。半兵衛が苦笑気味に口を開く。
「幸村をよろしくね」
「どうしてそれを俺に言うのですか。頼むなら清正に、」
「きっとお前たちは仲良くなる。何たって相性が良い。俺が言うんだ、間違いないよ」
 三成はその言葉にどう返すべきか分からず、話はそれだけですか、では失礼します、と二人に追いつこうと少しだけ乱暴に手綱を揺らすのだった。










  

11/05/15