大丈夫、と幸村が言った通り、山道を馬で降りるという慣れている者でなければ落馬する可能性すらある行程も、幸村はけろりとした顔でしてのけた。その目隠しは見かけだけで、本当は見えているのではないか、とすら思わせる程だった。城の馬小屋に馬を預け(番の者はやはりと言うか、幸村の状態に驚いていたようだ)、そのまま秀吉の元へと向かった。旅装束のままだったが、着替えよりも先に報告を優先させたかった。半兵衛の庵で雨宿りをしていた時間はまさに想定外で、思わぬ時間を食っていたからだ。
「着いて来い」
と、相変わらず無愛想な声を出した三成に、幸村は躊躇いがちに声をかけた。
「あの、申し訳ありませんが、袖を掴んでも良いでしょうか…?」
三成が、何故そんなことをとでも言いたげに幸村を振り返ったが、清正は彼に言われてようやく、彼の目の状態を思い知った。馬も慣れた風であったし、あの庵の中を不便なく歩き回ってはいたが、彼の目は全く見えないのだ。おそらく初めて訪れたであろう地に、さあ先導してやるから勝手に歩け、というのは少々酷であろう。あの庵は幸村の状態を慮ってか、廊下には一切の物が置かれていなかったし、造りもそう思えば単純に出来ていたように思われた。けれども、これから登城する場所は人も物もあの庵とは比べ物にならぬ程に溢れている場所であり、誰かが不用意に置いたもので幸村が躓く可能性もある。ちらりと隣りを伺えば、三成もようやくそのことに思い至ったようだった。ただし、ここで三成から手が伸びるかと言えば、そうではないだろう。三成は己の容姿には気を配らぬくせして、他人の目にどのように映るかを妙に気にする性質であった。ねねが、疲れた時は甘いものだよ!と団子を差し入れしても、女子どもでもあるまいし、と突っぱねることも多々あった。要は己の姿がどちらかと言えば女性寄りであることを自覚している分、女子どもを連想するものに過剰に反応しているのだろう。これは三成に期待する方が無駄だな、と早々に覚った清正は、ため息と共に幸村の名を呼んだ。近くに清正が居ることを感じ取った幸村が、更に申し訳なさそうに身を縮ませる。仕方のないことだ、そう恐縮することでもあるまいに、と清正は思いながら、幸村の手を取った。そのまま己の袖を握らせようとしたのだが、いや、と思い止まる。こちらよりも、手を握った方が楽なのだ。手の高さがそう大差ないこともそうだが、障害物に気付いた時、言葉で示すよりも彼の手を引いた方が手っ取り早い。そう思って予告なく幸村の手を握れば、彼は大仰に驚いたようで勢い良く肩がはねていた。彼の手のひらには、鍛錬のし過ぎで潰れたマメの感触が残っていて、清正は少しだけ動揺した。
「あの、」
「こっちのが都合が良い」
「ですが、お嫌でしょう」
「俺がしてんだ、別に気にならん。それとも、お前が嫌なのか?」
これは意地の悪い訊き方だ。清正の手を煩わせるという負い目が幸村にある以上、幸村が清正に対して文句を言うことはできない。これが幸村ではなく三成であったのなら、そんな負い目があろうがなかろうが、文句ついでに鉄扇で清正の手を叩き落すぐらいはするだろうが、生憎と幸村はそこまでの過剰な防衛本能が備わっているわけではなかった。
清正が予想した通り、幸村は、滅相もありません、と首をゆるく振った。
「ありがたいことですが、先程ため息をつかれておりましたし、面倒ではありませんか?」
「ああ、あれはお前にじゃない、あの馬鹿に対してだ」
そう言いながら三成の方へ視線を移す。見えはせずとも、幸村ももう一人のことだと気付いて、はぁ、と気のない相槌を打った。三成はと言えば、一部始終を黙って眺めていたものの、唐突に自分に矛先を向けられて、思わず眉間に皺を寄せた。
「話は済んだか。行くぞ」
不機嫌そうにぷいと顔を背けながら、三成が歩き出す。清正もそれに続いた。誘導することになれていない清正は、どうすればいいのか分からずとりあえず繋いでいる幸村の手を引いた。乱暴な仕草であったことは確かだったが、幸村は何も言わず半ば引き摺られるようにして歩を進めた。
城内は人で溢れている。三成たちのような秀吉直属の者や、侍女や下男、秀吉に預けられている小姓たちに商いの者。早足にも近い二人に遅れぬようにと幸村も足を急かしながら、色々な人の声を聞いた。老いも若いも、男も女も、皆活気があって、何より楽しげであった。その中には、やはり手を繋いでいる清正と幸村のことを指しているだろう会話や、幸村の容姿についてひそひそと話す声もあった。人ごみの中でも、長身二人が手を繋いでいること、その一方の目に包帯が巻かれていることなどは、やはりどうしても目立つらしい。
「清正どの、」
幸村が躊躇いがちに声をかければ、清正はそのままの状態で、なんだ?と声だけを返した。
「ああ悪い、少し早いか?おい三成、もう少しゆっくり歩け」
「ああいえ、違うのです。その、この状態は外聞が悪いと言いますか、清正どのにご迷惑をおかけしていると言いますか、」
良い的です、と幸村は段々と小さくなる声で、何とか最後まで告げた。が、清正はそんなことは知らん、と一刀両断してしまった。人の目などどうでもよいとでも言いたげに、握っている幸村の手を更に強く握り締める。これには幸村もどうすることもできない。清正の好意に甘えている分、彼の手を振り払うことはできないし、そもそも、この手を離してしまったら、幸村は一体どこへ向かって良いのかすら分からないのだ。
居た堪れない幸村に気付いたのか、今度は違う声が幸村の名を呼んだ。それは多大に険を含んだ三成の声だった。
「この馬鹿は人より図太い。あまり気にするな。このお節介もこれの病気だ。我慢してやってくれ」
「おい、」
「なんだ、違うのか」
またしても言い合いになりそうな空気を察した幸村が、慌てて清正の手を握り返した。言い返そうとしていた清正だったが、幸村に先手を打たれて思わず口を閉ざす。
「ありがとうございます。清正どの、それに、三成どのも」
ふん、と鼻を鳴らして、いつの間に止まっていた歩を再開させた。その歩みが先よりも僅かに緩やかになっていたことに二人は気付いていたが、清正はもとより、三成の気性に気付きつつあった幸村はそれに小さく微笑んだだけで、そのことには触れなかった。
秀吉へと謁見を願い出れば、すぐにその許可は下りた。彼は彼で、二人の帰りを待ち望んでいたようだ。いや、正確には半兵衛の帰りを、だろうが。簡単な礼を取って秀吉の前に進み出る二人とはよそに、幸村はその場に深く平伏した。叩き込まれている礼節は何ら不備はないのだが、秀吉に対する謁見に通常の礼儀は不要だった。幸村の様子に思わず苦虫を噛んだような表情になったのは、一応、そうするのが普通なのだと気付いているからだ。だが、どうしても身につかない。どこかぎこちなくなってしまうのだ。規則や決まりが大好きな三成は、清正よりも簡単にその一連の動作を習得していたが、お互い不慣れなことには変わりはない。誤りがない、ということが、そのまま洗練された所作に繋がるというわけではないのだ。
部屋は決して広くはない。上座には秀吉が、その傍らには正妻のねねが寄り添っている。そこから一つ下座には、もう一人の軍師である官兵衛がいつもと変わらず顔色の悪いまま座っている。三成と清正は秀吉の正面に胡坐をかいた。部屋の広さを思えば、幸村と随分と距離が離れてしまっていた。
「幸村、そういうんはいらん。久しぶりじゃな、早う近くに寄れ」
誰かが知らせたのだろう、自分たちの帰還に気付いていたことは想像するに容易いが、その秀吉が知った風に幸村の名を呼んだことに二人は驚いた。半兵衛と会うことができず落胆しているかと思えば、その様子もなかった。もしかしたら、秀吉もこうなることを察していたのかもしれない。むしろ喜んでいる調子すらある秀吉の様子に、真田幸村という男は一体何者なのだろう、と今更のことを思った。半兵衛に目をかけられ、秀吉からも歓迎されるこの男は。
清正の疑問をよそに、幸村は凛と通る透明度の高いあの声で、はい失礼します、と言って自然な動作でその場から三歩進み出て、その場に正座した。秀吉はその距離にまだ不満そうだったが、秀吉がそれを指摘するよりも先に、官兵衛が声を発した。相変わらず、黄泉路に片足の一本でも突っ込んでいそうな、地を這うような響きだった。
「見たところ、半兵衛の姿が見えないようだが。三成、報告を」
おそらくは、口を出さなければ、秀吉とねねの世間話に移行してしまうと感じ取ったのだろう。官兵衛の視線を受けて、三成は眉を僅かに顰めたが、不満はどうにか押し留めたようだった。三成はそういった不快不愉快不機嫌だとかいうものに対してのみ、表情が豊かになるのだ。
「半兵衛様にお会いすることはできましたが、下山するのは無理だと仰られました。疲れやすくなっているようです」
「半兵衛は大丈夫なのかい?完治する病気じゃないことは分かってるけど、心配だねぇ」
「俺が見た限りではとても元気そうに見えましたが、本人が拒みましたので。書状を預かっております。おそらく詳しいことはこちらに」
三成はそう言って、懐から半兵衛に託された手紙を取り出した。進み出て、官兵衛に手渡す。秀吉と官兵衛の間で無言のやり取りが行われ、まずは官兵衛が書状に目を通す。見る見る表情を顰める官兵衛を、秀吉は面白い見世物でも見ているかのように、にまにまとどこぞの軍師と同じような笑みを浮かべていた。
「どうじゃ?」
「…人を集めて、秀吉様の口から読み上げられるべきでしょう。半兵衛もそう言っていたのではないか」
確信のこもった言葉に、三成は僅かに眉端を上げて、その通りです、と平坦な声を発した。本来ならば咎めるべき三成の態度だが、慣れている官兵衛は特に何も言わない。なら皆を呼んでくれ、と満足そうに秀吉は笑いながら、そう命令するのだった。