突然の召集にも関わらず、人が集まるのは早かった。召集された人間は、秀吉の弟・秀長から始まり、養子として預かっている者、最近頭角を現してきた三成たち小姓部屋出身の者など様々だった。もちろんその中には、正則の姿もある。三成たちは古参の者たちに席を譲って末席に下がったが、幸村は官兵衛に引き止められ、今は官兵衛の隣りで居心地が悪そうに、それでも背筋をぴんと伸ばして正座している。集まる面々はあれは誰だろうとひそひそと隣りの者と語り合っている。本来ならば、官兵衛の隣りは半兵衛の居場所であったからだ。突然、まだ年若い者がその場を占拠していれば誰だって目が行ってしまう。その者の目が包帯で覆われている、という異質な状態であるならば尚更だ。清正は遠くから幸村の様子を眺めながら、けれども、それだけが理由ではないと思っている。急速に大きくなった羽柴家は、あまり礼儀だとか品位だとか、そういったものに疎い者が多い。我が家のような居心地の良さがあるのは羽柴家の特色だが、悪く言えば田舎丸出しの者たちなのだ。その中に、ぽつんと澄んだ空気が浮かんでいる。目立たぬわけがなかった。
「おい清正、あれは一体誰だ?」
珍しく声を潜めながら問い掛けたのは正則だ。末席なのを良いことに、座り込んだ彼の姿勢は決して会議のそれに相応しいとは言い難い。隣りに腰掛けた正則を一瞥して、
「黙ってろ。すぐに分かる」
と、無愛想に一応の返事をした。清正の素っ気なさに慣れている正則は別段気を悪くした様子はなかったが、つまらなさそうに口を尖らせた。拗ねた子どもそのものだ。
大体の者が集まった頃合だろうか。皆の様子を眺めていた秀吉はおもむろに立ち上がって、部屋の隅々まで届くように声を張り上げた。そうでなければ、皆の雑談は止みそうになかったからだ。
「そろそろ静かにせぇよ。始めるで」
秀吉はそう言って面々を見渡して、咳払いをした。清正がちらりと幸村の様子を伺えば、辺りにきょろきょろと首を振っていた。もしかしたら、こんな気楽な会議は彼の体験にはないのかもしれない。確かに、完全に私語が消えているわけではないし、厳格な始まりを宣言する言葉もない。けれども、だからこそ言いたいことを言い合える居心地の良い家になったのだ。
「忙しいとこ悪いなあ。半兵衛から文が届いたからのぅ、皆にも伝えておきたかったんよ。一字一句間違えずに読み上げるからの、皆、心して聞いてくれや」
そう言って、懐から文を取り出し、読み上げ始めた。
『お久しぶりです秀吉様。お元気でしょうか。官兵衛殿はきっと相変わらず不健康そうだとは思いますが、一生に一度は顔色の良い官兵衛殿というのも見てみたいので、不摂生しすぎないよう、くれぐれもお願いします。官兵衛殿、官兵衛殿がすんごい忙しいのは分かってるけど、一度も俺のところに顔を出さないってどういう了見?こっちの暮らしは快適だけど、官兵衛殿にちっとも会えないから物足りないです。寂しいので会いに来てね』
『とまあ、挨拶はこの辺にしといて。俺はまだこの生活が満喫し切れてないので、秀吉様のところには行けません。これから暑くなるし、余計に行きたくないっていうか。その代わり!俺の代理を立てておいたので、幸村を俺だと思って存分に可愛がってやってください』
まだ手紙の途中だったが、秀吉は一旦言葉を切って、あれが半兵衛の秘蔵っ子じゃ、と幸村を指し示した。一斉に皆の視線が集まったことを肌で感じ取ったのだろう、幸村は更にぴんと背筋を張って、無言で一礼した。たったそれだけのことだが、その所作にはどこか透明感がある。余程の鈍感でない限り、彼の仕草が付け焼刃のそれではないことぐらいは察することが出来ただろう。
『幸村には俺のとっておきの知識をいっぱい詰め込んであります。俺の後継は幸村しかいない。幸村のことは俺が保証します。幸村の言葉は俺の言葉、幸村の語る軍略は俺の軍略、そう思ってください。俺、竹中半兵衛は、俺の軍師としての権限の一切を真田幸村に託します。はい、聞いた?聞いたよね?んじゃ、ここにいるみんなは共犯ってことで。幸村を不当に傷付けることは俺が許さないし、この約束を守らなかったらどうなるか分かってるよね?みんなの人には言えないあれやこれやを暴露するのは簡単だからね。くれぐれも気を付けるよーに!はい、以上!解散!みんなは羽柴家の為、秀吉様の為、それと俺の安眠の為、今以上に励むように!それじゃあ、またね。竹中半兵衛より』
秀吉は読み終えた手紙をたたみ、懐にしまいこんだ。皆の視線を集めている幸村は、包帯が覆っていない部分が赤く染まっていた。もし幸村の場所が己だったら、とても羞恥で耐えられそうにない、と清正は苦笑した。
「秀吉様、失礼ですが、真田幸村とはどういった者なのですか?」
古参の一人が訊ねる。その場に居合わせる皆が、その問いの答えを興味津々に待っている。あの性悪で、けれども一応の天才軍師の代わりに任命された人物だ。その疑問は正しい。けれども、その答えを得たところで、自分たちの中にある疑問の一切が解決されないことを清正は知っていた。生まれ育ちを聞いたところで、彼のどの辺りが半兵衛の後継になるのか、清正自身分からないからだ。
「名を真田幸村と言う。半兵衛んとこに付けさせて何年だったか。まあ数年は経っておるわ。半兵衛を擁護するわけではないが、儂も半兵衛の後任は幸村しか考えられん。不審に思うんは仕方ないことじゃ。じゃが、儂を、半兵衛を信じてくれんか?」
主にそう言われて、それでも首を振ることが出来る人間は、この場にはいない。皆、秀吉が好きで仕えているのだ。こうまで明け透けに言われてしまえば、頷かざるを得ない。それでも、秀吉に対する質問は続いた。
「真田、と言いますと、信州の?もしや武田方のあの真田ではございませぬか?」
武田の名に、場が急に色めき立った。当然と言えば当然の反応だ。武田は羽柴が手こずった相手であるし、決してこちらの内応に応えなかった結束の強い家だ。更に言えば、旧武田家臣のほとんどが、目下牽制し合っている徳川家に召抱えられているとなれば、そのどよめきはひとしおだ。徳川とは表面上は友好だが、互いの領土拡大で近い内に衝突することは目に見えていた。武田という名は、ただそれだけで不穏要素でしかないのだ。
秀吉は家臣の口から武田と出て、大きなため息と共に肩をすくめた。幸村が更に申し訳なさそうに身を縮めている。彼のせいではないのに、とせめてその肩を叩いてやりたかったが、距離はあまりに離れてしまっていた。
「皆が言う、あの真田じゃ。今は大人しいもんで、儂に忠誠を誓っておる。それにのぅ、儂は儂の目を信じておるぞ。幸村は裏切らん。今はまだ幸村を信じよ、というのは難しいじゃろう。ならば、儂を信じよ。儂の直感を信じよ。皆に勝ち戦を与え続けた半兵衛の戦眼を信じよ、というのはどうじゃ?まあここでは不満も言いにくかろう。文句がある奴は儂に直接言いに来い。幸村を抜擢するんは儂の責任じゃ。良いな?」
そう自信満々に言われてしまえば、それ以上の言葉は不要だ。渋々といった様子ながら納得した皆の顔を見回して、秀吉は大袈裟に頷いた。解散していいぞ、と秀吉が軽い調子で言えば、上座に近い者から順々に退席して行った。最後に残されたのは、召集の命をかけた面々と、清正のおまけとして正則だけになった。
人が少なくなったこと気配で察したのか、幸村は小さく安堵の息をついていた。知らぬ場所にいきなり放り込まれて、話題の中心に担ぎ上げられ、更には皆から痛い視線を向けられれば疲れもするだろう。先まで隣りに居た三成は、ねねに引っぱられて今は退室している。おそらくは、幸村の部屋の手配をしているのだろう。そういった雑務は三成の得意なところだ。多少のやっかみがないわけではないが、適材適所が羽柴家の基本である。清正はすぐに首を振って幸村の側に寄った。
「幸村」
気を抜いたところに声をかけたのがまずかったのか、幸村は僅かに身体を強張らせた。けれどもすぐに声の主が清正であることに気付いたようで、声がした方に向かって薄く微笑んだ。
「恥ずかしいところを見せてしまいました」
そう、幸村は控えめに言う。こうして言葉を交わしてしまえば、半兵衛の後継には全く見えなかった。彼の纏う空気は穏やか過ぎるのだ。
「色々大変だったな。全く、性の悪い師匠も居たもんだ」
「全くです。事前に伝えてくだされば、固辞したものを…。わたしには勿体ない過大評価です。これからどうしましょう」
「まあ、頑張れよ。俺も応援してるぞ」
ありがとうございます、と幸村は言って、困ったなあ、ともう一度ため息をついた。
「人の信頼を得るのは難しいことです。それに、わたしはこのような容姿ですし。頭ごなしに信頼してくれ、と言われても、はいそうです、といかぬのが人の心でしょう」
「だが、それが出来ると思って半兵衛様はお前に託されたわけだろう。それだけ期待されてるってことだ。もちろん、秀吉様からも。割と俺もだ」
清正の言葉に幸村も驚いたようで、
「…わたしは平凡な男ですよ」
と、念を押したようだった。平凡な男が半兵衛の側にずっとついていることはできないだろうに。幸村は気付いていないのか、謙遜しているだけなのか、それとも本当に本心からそう思っているのだろうか。やっぱり変なヤツだ、と思いながら笑い声を立てれば、先から話しかけたくてうずうずしていた正則が、清正の背後から顔を出した。
「おい清正、早く紹介しろよ」
「名前は聞いてただろ。後は勝手にやれ」
「冷てぇなあ。幸村つったか?俺は福島正則ってんだ。よろしくな!」
人懐っこいのは正則の良い所だ。だが残念ながら、それ以外の良い所がぱっと思い浮かばないのも確かだった。正則はいつまで経っても落ち着きがないし、声は大きいし所作はがさつだし、人相は、いや幸村に見えないから人相はいいのか。とにかく、清正が言えた義理ではないが、決して第一印象が良い男ではないことも確かだ。けれども正則は、一度としてそれを気にした様子はなかった。今も幸村の両手を握り締めて、よろしく!と何度も腕をぶんぶん振っている。流石に幸村も戸惑っているようで、抵抗することを忘れている。
「よ、よろしくお願いします、正則どの」
「おい馬鹿、お前は一々乱暴なんだよ。腕がもげるだろうが」
「んなやわに出来てるわけねぇだろう。にしてもすげぇよなあ、あの半兵衛様が人を褒めるなんて、滅多にないぜ。俺なんていっつも小言ばっか言われてたし」
「それはお前が馬鹿だからだ」
けれども正則の言う通り、半兵衛が官兵衛以外の誰かを褒めているところなど、一度も見たことがない。逆に言ってしまえば、半兵衛の褒め言葉は全て官兵衛が独占していたのだが。それをちっとも羨ましいと思ったことがないぐらいには、半兵衛の言葉選びは微妙だった。
「なら清正はあるのかよぅ」
「ない。が、お前のように会う度に嫌味言われてたわけじゃねぇよ」
三成とは違いその空気に剣呑さはないが、ぽんぽんと飛び出す言葉の応酬に、幸村の首は行ったり来たりを繰り返している。見えないはずなのに、こういうところが律儀なのだ。
「幸村、お前も気を付けろよ。こいつは馬鹿だからな、あんまり一緒に居るとうつるぞ」
「うつんねぇよ!」
気心の知れた言葉のやり取りが面白かったのか、幸村は笑みを浮かべている。全く恥ずかしい限りだ。身内の恥をさらしているようで居た堪れなかったが、幸村が微笑ましそうに笑うものだから、撤回するのも妙な話だ。仕方なく、それ以上の恥が飛び出さないように口をつぐんだ。
「なあ幸村、お前、全然見えねぇの?それでどうやって生活してんだ?俺も一回、戦ん時に目が見えなくなったことあっけどよぅ、真っ直ぐ歩くどころか、真っ直ぐ立ってるのもできなかったぜ」
すげぇすげぇと言いながら、また手をぶんぶんと振り回している。その頃には幸村もこれが正則なりの感情表現の方法なのだと察したらしく、最早されるがままの状態だ。
「慣れと、後は勘でしょうか。案外なるようになるものですが、やはり目が見えないことに変わりはありません。ですので、人の姿かたちは想像するしかありません。清正どのはどのような顔をなさっているのでしょうか、正則どのはどのような顔でこうして握手してくださっているのでしょうか、と、そう思うことはあります」
もどかしいことですし、思ってもしようのないことですが、と幸村は今度は少しだけ切なそうに笑った。彼の顔を清正たちが知らないのと同様に、彼もまた清正たちの顔を知らないのだ。こんなにも近くで会話しているのに、それがどう足掻いても不可能であることが少しだけ寂しかった。それなのに正則は、
「んなの簡単だろ」
と、空気を読まないのん気な声で場の雰囲気をばっさりと斬り裂いた。握っていた幸村の手を正則自身の両頬にぺたりとくっ付け、その手の上に正則の手が覆いかぶさった。何やってんだ、と思わず固まる清正をよそに、正則が言葉を続ける。
「ここが俺のほっぺで、んでこっちが鼻、親指が触ってんのは耳だし、薬指んとこにあるのは俺の眉毛だ!」
そう言って、自分の顔にも関わらず、ぺたぺたと幸村の手を操って、自分の顔を撫で繰り回している。これで分かったろう!俺が目見えなくなった時もこうやって相手を確認したぞ!と満足そうに言って、ようやく幸村の手を解放した。幸村は幸村で、手の感触を確かめているのか、手を握ったり開いたりを繰り返していた。この強引な方法は、きっと正則でなければ思いつかなかっただろう。
その頃にはようやく、羞恥だか何だかよく分からない感情の波がやってきて、清正は正則を睨みつけながら脳天に拳を落とした。鈍い音に幸村の肩がはねたが、それに抗議するように正則が叫び声を上げたことによって、幸村も音の正体を察したようだった。更に説教だか小言だか恨み言だかよくわからない文句を言おうとしたのだが、それよりも先に幸村が口を開いた。
「正則どのは、男前ですね」
正則の顔の輪郭を文字通りなぞらされた幸村がそう言えば、清正は大袈裟に顔を顰めて、正則は嬉しそうに幸村の両肩に手を置いた。
「お前はいいヤツだな!」
そのまま抱き付きかねない正則に、清正はもう一度彼の頭に向かって拳を振り下ろしたのだった。