幸村の部屋の手配から戻ったねねと三成が着席したのを合図に、秀吉は再び口を開いた。場には召集前の面々と退席しなかった正則の姿があった。三成はまずそのことに顔を顰めたが、秀吉は構わず言葉を続けた。
「半兵衛は息災のようじゃの」
秀吉の問いに幸村は返答を躊躇ったようで、おずおずと口を開いた。
「変わりありませぬ」
それが、良くも悪くもなっていない、と察するのは容易い。秀吉は少しだけがっかりしたような声音で、そうか、と短く相槌を打った。そのまま世間話に移行してしまうのはいつものことだが、それを官兵衛の不健康そうな声が遮った。半兵衛が隠棲してしまったせいで、羽柴家の主な雑務は官兵衛が請け負っている。秀吉よりも余程多忙な官兵衛は、こういった他愛のない会話で己の時間がなくなることは極力避けたいのだ。
「秀吉様、早く本題に」
僅かに滲んだ不機嫌そうな調子に、秀吉も、ああそうじゃの、すまん、と襟元を正した。
「近い内に徳川殿と決着をつけようと思う。その第一手を考えておるんじゃが、」
幸村に注がれていた秀吉の視線が移動して、三成の顔で止まった。それに気付いた三成も、なにか?と目に力を込める。秀吉は懐から取り出した扇子を手の内で遊ばせていたが、二人の顔を交互に見て意を決したのか、まずは扇子の先で三成を指し示した。
「三成、お前を大将に命じる。徳川攻略の第一手として、国境の城を取って参れ」
唐突のことに手をつくことすら忘れて呆けていれば、その三成の顔を見て満足したのか、秀吉はにんまりとした笑みを作った。子どもの悪戯が成功したような顔のまま、今度はその扇の先を幸村に向けた。
「幸村、幸村は三成の補佐を命じる。軍師として三成を補佐してやってくれ」
「御意にございます」
「つ、つつしんでお受けいたします」
深く頭を垂れた幸村に遅れて、三成も慌てて頭を下げる。それに顔を強張らせたのは清正と正則だ。特に正則は全身から不満が溢れているような顰めっ面で、隠そうとすらしていない。それを微笑ましげに眺めるのはねねばかりで、秀吉は苦笑している。その表情の意味を理解している清正は、今にも反論しそうな勢いの正則の足を抓ることで、何とか彼の失言を防いだ。本当ならば、自分だって声を大にして不満をぶちまけたいのだけれど。清正には、純粋に三成より戦の才能があるという自負がある。三成もまた、一度として言葉にしたことはなかったが、そうであろうという認識があった。表面上は険悪な二人だが、だからこそ互いの性質はよく理解しているのだ。戦のことは清正に、帳面のことは三成に。餅は餅屋、と同様の意味合いである。
「話はそういうことじゃ。三成、資料をまとめておくよう頼んどいた件はどうなった?期日はまだじゃったが、早めねばならん。なんじゃったら、清正たちに手伝ってもらうか?」
からかうような口調で問われて、三成は思わずむっと顔を顰めた。秀吉から頼まれていた資料とは、今話題となっている国境に関してのものだ。地形・気候、更には人や物の流通・旅人の数、城下町の様子から徳川家臣である城主の評判や性格、軍の規模や性質などだ。三成も、これが戦の為の前準備だということは気付いていたが、まさか自分に直接関わってくるとは思っていなかった。兵の調練を任されている清正たちとは違い、三成が担当する仕事とは政の側面が強い。戦となっても出張るのは清正たちだろうという予想をしていた分、指名をされて咄嗟に返答できなかった程にその驚きは強かった。
「その件でしたら、今日中にはまとまります。明日、お届けに上がりますので、助力は不要です」
仕事の早い三成の返答に秀吉は満足そうに頷いて、なら帰ってええ。清正、正則も同じじゃ。早う仕事に戻れ、と退室を促した。清正たちは納得いかない表情だったが、さり気なく人払いを言い渡された以上、留まることもできない。一番に立ち上がった三成に続くような形で、清正たちも重い腰を上げた。羽柴家の軍議は皆が皆、自分の意見を言い合うので合議制のように見られるが、実質は秀吉の鶴の一声で決定することの方が多い。既に腹を決めていて、官兵衛と内密に打ち合わせをした上での軍議である。もちろん、手回しまで済んでいる。皆の意見を聞いているようでいて、知らず知らずの内に二人の手のひらの上で転がされているという格好だ。それに気付いている者は極々限られた人数ではあるけれども。だから、今更清正や正則が異議を唱えたところで、これは既に決定してしまったことなのだろう。それでも不満は十二分にあるので、その矛先はいつも決まっていた。
「あの子たちも難儀だねぇ」
そうねねに言われていたことなど知らない三人は、案の定、いつもの喧嘩が勃発していた。
「つぅかよぅ、なんで頭でっかちが大将なんだよ」
大きな独り言に清正は、声がでかい、と正則の頭を小突きながら、黙々と廊下を歩く三成の背中を眺めた。早く三成と別れたいものの、自分たちの持ち場に行くには途中までどうしても一緒の道を通らなければならないのだ。
「秀吉様が決めたことだ。俺が知るか」
「でもお前も不満そうだぜ。幸村が軍師格ってのも分かんねぇし、この戦下手が大将ってのもますます分かんねぇ。叔父貴、もしかして負けるつもりなんじゃねぇの?」
「馬鹿、そんなわけあるか。徳川攻略の初戦だぞ、勝ちたいに決まってるだろうが」
「そんならさぁ、なんで頭でっかち?清正の方が確実だろ」
二人のやり取りを無言で聞いていた三成だが、正直、正則と同意見だった。更に言うならば、清正も同様だ。槍働きで確実に功績を挙げている二人に比べて、三成は所謂行政の方で秀吉を補佐している。華々しい武功がないのは確かなのだ。それは三成も自覚しているところで、他からやっかみを生んでいる原因でもある。これといった戦功がないにも関わらず、小姓部屋出身というだけで秀吉の側にいる腰ぎんちゃく。貶す言葉は違えど、彼らの思いの方向は同じだ。人は目に見えぬものは中々認識できぬ生き物であって、羽柴に戦勝をもたらしているのは、二兵衛の軍略・清正たちの槍だと思っている部分が強い。けれども、その軍容を支えているのは、三成たち文官に分類される者たちの働きだ。どのような道を通って軍を移動させるのが最適か、戦に必要な物資の調達から輸送、滞りない配布を取り仕切っているのは彼らだ。ただ、米や弾薬などの物資が豊富にあることが当然のことになってしまった羽柴家にとって、三成たちの苦労はあまり知られていない。ただ、それは口さがない者たちの言であって、秀吉は三成たちの働きも全部知っている。ゆえの重用なのだが、中々人々の理解を集めるには至っていない。ただ、清正と正則が三成と対立関係にあるように見えるのは、単純に馬が合わないせいである。
「幸村って奴は、そんだけ有能なんだろうなあ」
正則の他愛ない一言だったが、そこから嫌な想像をさせる程度には核心を突いた言葉であったせいで、二人は動揺した。この戦で下手を打てば、三成の評判が下がる以上に、幸村の立場が悪くなるだろう。この人事は、二人からしてみれば結構な賭けであったからだ。三成も決して暗愚ではない。けれども、戦は下手だった。少なくとも清正よりは、戦の機微に疎かった。そうと知っていながら、主は三成を抜擢した。皆に植え付けられたのは、"あの"石田三成に勝利を与えることが出来る程、真田幸村は優れている、という先入観だ。まったく、嫌な人選をしたものだ、と主でなければ口に出して罵っていただろう。
感情の触れ幅が人よりも少ない清正はその動揺を見事に隠しきったが、三成はそうではなかった。肩が僅かに震えたことを清正は気付いたが、何故だかそれを指摘することが出来なかった。きっと内心では同じぐらい、清正も動揺したからだろう。何より、ことの当事者である。不得意なことに対しての焦りや不安は、そう容易に払拭できるものではない。
「俺たちはあいつの実力を知らん」
「でもよぅ、半兵衛様が太鼓判押してて、官兵衛様も反対してないんだろ?そんだけ期待が高いってことじゃねぇの?」
正則はあまり物事を深く考えない。考えないが、人を見ていないわけでは、決してない。単純に出来ているせいか、時には清正たちがはっとするような結論に辿り着いたりもするのが彼だ。
「負けぬ」
「はぁ?」
今までじっと黙っていた三成が突然に口を開いた。清正は何も言わなかったが、正則が噛み付くように声を発した。挑発するような調子だったが、三成は不快そうに眉を寄せただけで、彼の勢いに乗るようなことはなかった。くるりと振り返り二人を睨み付ければ、同じように不機嫌な二人の目が三成に向けられていた。
「負けぬ。俺は負けはせぬ。これでいいだろう。勝利の報を、貴様たちはこの城で指をくわえて待っていろッ」
叩き付けるような語尾と共に、三成は走り出した。あの二人は追い掛けては来ないだろう。そのような穏やかな関係でもない。もうすぐ別れ道でもあったのだ、そう長い距離ではない。三成は逃げるように自室へと駆け込んだ。
根拠のないことを言ったものだ。三成は独白する。自分の戦の才は知っていた。それを補う為に家臣は戦上手を召し抱えている。だからといって、絶対の自信があるわけではなかった。勝つだの負けるだの、自分の意志一つでどうにかなるのなら苦労はしないのだ。
はぁはぁと息を整えながら、もし、この戦で負けた時、羽柴の人間は自分たちをどう見るだろう、と考えてしまった。自分たち、とは己と幸村のことだ。やはり戦下手の石田三成、と陰口が増えるだろう。同時に、幸村に対する落胆も強いに違いない。ああも大勢の前でその存在をひけらかされた幸村だ。誰もが不審に思っていながら、同時に半兵衛の再来を感じ取った者もいるだろう。それほどまでに先の集まりは大事だったのだ。
嫌な人選をしたな、と三成は心の中で呟いた。もちろん、清正も同じことを吐き出していたことなど知る由もない。今更ながら主に恨み言を叫びたいところだった。何故己なのだろう、何故清正ではないのだろう。確かに戦の経験はある。けれども、精々軍団長止まりだ。一軍を率いたことなど皆無だ。軍の扱いは清正の方が秀でている。何故、己だったのだろう。明日、資料を提出する際に掛け合ってみよう、と結論付けた三成は、ようやく不審そうにこちらを見る家臣の姿に気付いたのだった。