島左近は、三成が直々に頼み込んで召し抱えた男だ。当初は戦関連の補佐をしてもらう目的だったのだが、様々な家を渡り歩いていたというだけあって、彼は多才だった。戦のことのみならず、諸々に詳しい。自然、三成の仕事全般の補佐に回るようになった。今も三成がまとめた資料の最終確認をしてもらっていた所だ。そんな出来た家臣であるから、慌てた様子で部屋に駆け込んだ三成に大袈裟に驚いたりはしない。気位だか意地だかが異常に高い三成をよく知っている人物でもあるので、三成の空気を察するのはうまかった。
「殿、内容の確認、済んでますよ。手落ちもないと思いますし、秀吉様に提出されては?」
三成が望むように、何事もなかったように左近はそう言って、資料を差し出してきた。巻物にして三巻に渡るそれは中々に大作だ。三成はそれを受け取りつつ、
「少し事情が変わった。明日お伺いすることになっている」
と、むすりとした声を発した。これは三成の常の声なので、別段機嫌が悪いわけでもなければ苛ついているわけでもないのだが、知らぬ者からすればこれだけで萎縮の対象になるだろう。三成は自覚している以上に、整った顔が余計に人に威圧感を与えるのだ。
「珍しいこともおありで。いつもだったら、一刻も早くお渡ししてるでしょうに」
「近い内に戦になる」
左近の問いに対しての返答ではなかったが、こういったことはままあることだ。左近は、はあ、と適当な相槌を打つ。三成が要求しているのは相槌ではなく、黙って己の話を聞いてくれる相手であることを知っている左近は、その辺りはおざなりだ。それに、左近も協力して作成した資料は、秀吉の道楽でないことぐらい察している。
「その戦の大将は、どうやら俺らしい」
「はあ、それは誠に喜ばしいことで、」
そうやる気のない返答をしてから、
「それは本当ですか!!」
と、ようやく言葉を理解したような様子で、左近は声を荒げた。三成に掴みかからんばかりの勢いで顔を上げる。左近がこれほどまでに驚くのだから、この抜擢は異例のことだと言えよう。悲しいことではあるけれども。どうしても同期の清正たちに比べて、武働きが劣っているということを左近も知っているのだ。
「ああ。だが俺には荷が重いように思えてならんのだ。明日秀吉様には辞退を申し出るつもりだ。幸村が、」
気の毒に思えて、と続くはずの言葉は、左近の鸚鵡返しにかき消されてしまった。
「幸村って、真田幸村ですか?」
左近の口から出た名前に、今度は三成が目を見開く。その表情が如実に疑問を表していたようで、
「武田に世話になってた頃に、」
と、短い回答があった。左近が色々な家を転々としていたことは三成も知っているし、その中にあの武田があったことももちろん聞かされている。
「ええっと、殿。どうしてここで幸村の名が出てくるのか、訊いてもいいですかね?」
そこでようやく、事の詳細を語っていないことに気付いた三成は、掻い摘んで今日の出来事を語った。幸村が失明していることを告げれば、左近はまるで苦虫を噛み潰したような表情で、少しだけ顔を伏せた。
「そうですか、幸村が、ねぇ」
左近の口から発せられる彼の名は、左近の舌に馴染んでいるように感じられた。顔見知り程度のことだと思った三成だったが、案外に親しい間柄だったのかもしれない。軍師格だった左近と、おそらくは初陣を済ませた程度の若侍だったであろう幸村とに繋がりがあったとはあまり連想できぬ話ではあったけれど。
「幸村は、不思議な男でしょう?」
言葉の上では疑問の形ではあったものの、左近の声には確信がこもっていた。三成は言葉を選ぶように僅かに視線を下げた。今日初めて会った人間だというのに、いつもの嫌悪感はなかった。だからと言って好感を抱いているわけではない。三成にとっても、珍しい男であったことには間違いはないのだけれど、あの平凡な男を珍しいと言うのは何だか少し違うような気もあった。あれは一度として三成にうろたえたことがなかったのだ。
「よく、分からん。変なヤツだとは思うがな。俺に躊躇いもなく話し掛けてくるし、かと言って馴れ馴れしいわけではない。妙に落ち着いているというか、図太いというか。ただ、半兵衛様の後任に相応しいとは到底思えん。あれでは、虫も殺せぬ」
珍しく歯切れの悪い言葉だった。それでも左近は、そうでしょうなあ、と知った顔をしている。いや、幸村という男を知っているのだけれど、三成の心に抱えている幸村に対しての不可思議すら見透かしているような顔だった。
「殿のお言葉に間違いはないと思いますよ。あれはそういった男です。まさに絵に描いたような好青年でしたからな、」
戦場でなければ。
左近の言葉に、三成は眉を寄せる。虫も殺せぬような男だ。温和過ぎて、戦などできるのかと思わせるような男だ。その疑問すら見透かしているのか、左近はまあ聞いてくださいよ、と三成の小さな動揺を肩を叩くことで押し留めさせた。三成の癇癪にも鋭いのが左近の良いところだ。
「戦になると、あれは化けます。戦場での幸村は、さながら修羅か阿修羅のようでしたよ。敵ばかりでなく味方からも、鬼の化身だ鬼そのものだと、まあ恐れられていました。戦に対する嗅覚は鋭かったですねぇ。騎馬隊を率いて、誰よりも先に敵陣に斬り込んで行くんです。肌で敵の隙を感じ取ってでもいたんでしょうかねぇ。敵陣を崩すのがとにかくうまかったんです。あいつ自身槍の名手でもありましたし、幸村の率いる小隊ってのがまあ、あいつの思う通りに動くんですよ。まるで手足のようでしたねぇ。侵略すること火の如くってのはあながち間違いじゃなかったんです。文字通り、幸村の通った後には屍しかありませんでしたよ。まるで炎に灼かれたようでした」
左近は一旦言葉を切って、知らず知らず顔色を失くしている三成を見て、ゆっくりと告げた。
「あれは、恐ろしい男です」
何か言わねば、と口を開いた三成だったが、そこから言葉が漏れることはなかった。先まで顔を合わせていた男の口許を何度思い出しても、左近の言う、恐ろしい男、には繋がらなかった。ああだから、左近は不思議な男、とも言ったのだろうか。
「俺の知る幸村ってのはそういう奴です。それにしても、幸村が失明、設楽原で失明かあ。それは何とも、皮肉な話だ」
「…どういう意味だ」
「いえね、俺の知る幸村ってのは、もののふらしい生き方に固執している節があったんで。幸村はもののふの意地を貫く為に生まれ落ちたんじゃないかと、俺すらもそう思っていた時期もあったんですよ。ですから、失明したあいつが何を思っているのか、そもそもどうやって今まで生きてきたのか、俺にはとんと見当がつかないってわけです」
「目を失っただけだ。身体は健康そのものらしい。それなのに、」
「ええ、俺たちにとってはたったそれだけのことです。でも幸村にとってはそうじゃない。もう槍は握れないでしょう。戦場に立って敵をその手で屠ることも、敵陣に斬り込んで行くことも、兵を率いて戦場を席巻することも、最早不可能でしょう。そこは、俺も残念だと思いますがね。あれは天性の戦上手でしたから」
戦上手、と三成は唇だけで呟いた。己にはどうあっても掛けられぬ賛辞であろう。羨ましいだとか恨めしいだとか、そういった感情はなかったが、何故だか物悲しく感じられた。
「周りはやはり失望しただろうか」
「それはどうでしょうかねぇ。幸村のあの才は天性のもので、武田の面々が面白がって色んなことを教え込んでまして、いわば武田の最高教育を詰め込まれた男ではあるんですが。むしろ戦に関係のない場所に落ち着くことが出来て、皆ほっとしてるんじゃないでしょうか。人当たりが良いもんだから、皆から人気は高かったですからねぇ」
乱世である。大名家の男であるならば、戦に無関係ではいられない。それなのに、ほっとした、とはどうにも矛盾しているではないか。まるで彼を戦場から遠ざけたいような言い分である。三成には理解も及ばない話である。分からないと言外に訴えれば、左近は続きを紡いだ。
「もののふの意地を貫くのような生き方しか知らない男でしたから、死に対する恐怖がなかったんですよ。どんな危険にも躊躇わず突っ込んでいくわ、満身創痍で敵大将の首を持ち帰るわ。頼もしい味方でもありましたが、不安でもありましたよ。死地へ赴くことに、あれは一切の恐怖を持ちえていなかったですから。死を恐れないって生き方は、一概には言えませんが、長生きはできませんよ。周りはある意味、彼が失明して安心してる分もあると思うんですが、」
ちらりと三成の様子を伺った左近だったが、口を挟んでこないことを確認したのか、再び口を開いた。いつもの調子と変わらぬ口調で語るものだから、三成も反応に困っていたことは確かだ。
「本人は、どうだったんでしょうかねぇ。どうも俺は、幸村が生きていることが、正直実感できていないようです。盲いた眼では、もう戦場を睨み付けることもできないでしょうに」
あまり怖がらせるもんじゃなかったですね、と左近は苦笑した。戦場に立つことの出来ぬ以上、左近の言う鬼はもう現れることがないのだろう。それが良いことなのか悪いことなのか、三成には分からない。ただ、よかったと言っている割に、左近の表情はどこか暗かった。左近は左近なりに、幸村の戦の才能を好いていたのかもしれない。
「お前にしては、やけに持ち上げるな」
「そりゃあ当然でしょう。若い時分はやっかみがなかったわけじゃないですけど、今なら分かりますよ。あれと張り合おうと思っちゃあいけなかったんです。軍略も武働きも何もかも、おおよそ戦を形成しているもの全て、あいつに勝てるもんはなかったですからなぁ」
左近の有能さは三成がよく知っている。気難しい三成を主として慕っているし、よく気が回る。出来た家臣として胸を張って自慢できるこの男をおいても、幸村に勝てぬという。あの、穏やかそうな男に、だ。半兵衛は、清正よりも幸村の方が優れているという。左近は己よりも幸村の方が優秀だという。嫌だな、と三成は純粋に思った。本人に告げたことはないが、清正の戦の才は三成も認めているし、左近の有能さに助けられている部分は大きい。三成が一目置いている人物は、揃って彼よりも下に存在しているのだと思うと、腹の底からもやもやとした感情がわき上がってきた。それが決して気持ちの良いものではないことぐらいは、三成も知っている。嫉妬という程のものではない。悔しいのだろう。これはただのやっかみだ。分かってはいるものの、一度吹き出たものをなかったことに出来るほど、三成は人間が完成してはいなかった。ただ、三成の天を突くほどに高い自意識はそれを隠すように、先の話題を掘り起こすことで誤魔化した。
「…真田幸村がどういった男だったのかは、何となく分かった。だが、幸村が再び槍をとるわけでもないだろう。やはり此度の抜擢は俺には荷が重い。辞退しようと思うのだが、」
「殿、勿体ないですよ。これは間違いなく好機です。戦下手の汚名を返上する、またとない機会です」
確かに、清正たちに比べて、三成の戦手腕は拙い。それを種に散々陰口を言われている三成だ。出来ることならその印象を消し去りたいところだが、こればかりは個人の能力である。思う通りにいくわけがないのだ。石田隊は兵糧の輸送部隊に組み込まれていることが多い。このままこの位置が固定してしまえば、目立った武功を上げることすら困難になってしまう。立身出世が全てとは言わないが、その機会を得ることすら難しい立場になることは避けたかった。己の出世よりも家臣たちに報いたいと思う心が三成は強かったのだ。
「あの幸村が軍師に付くんでしょう。これ以上心強い味方はいません」
「しかし…、」
「大丈夫です、殿。幸村に任せておけば、間違いは在り得ません。あれは憎たらしい程うまくやってくれますよ」
石田三成とは、面倒な意地を持っているくせに単純な男である。今も一番に信頼している家臣からそう宥められて、しかも珍しい確信に満ちた言葉を受けて、いつの間にやらすっかりその気分になっていた。他の部分においては自信が溢れる程ある男だが、戦に関してはからっきしであるが為に、その道に精通している人間の一押しに弱かった。
「ああそうだ。明日の軍議にはお前も同席するか?どうせ俺の軍を率いるのは実質お前だ。幸村に会っておいた方がいいのではないか?」
三成としては当然の流れだったのだが、左近はふいを突かれたような表情で、少しだけ考える素振りを見せた。数年来の再会だ。お互い何かしら思うところはあるだろう。けれども、三成が予想していた返事が返ってくることはなかった。
「いえ遠慮しておきますよ」
「会いたくはないのか?」
「そうですねぇ。そのうち、機会があった時にでも」
その表情がどこか苦々しく映って、三成はそうか、と短く頷いたきり、その話題にはもう触れなかった。鬼の化身のような戦振りとは一体どんなものだろうか、とふと気になったものの、すぐに考えることをやめてしまった。やはり、左近の語った修羅か阿修羅のような男と、幸村とは繋がらなかった。