さてこちらは、一人秀吉たちの前に残された幸村だ。極々短い、軍議とも言えぬ簡単な打ち合わせを終えた幸村は、部屋の入り口で数刻振りにあやめに再会した。幸村の眼の包帯を替えるのはあやめの一番重要な仕事であるし、幸村との接し方にも慣れている。半兵衛の庵に滞在していたのも幸村の為である。幸村にとってはまさに己の眼の代わりと言っても過言ではない存在なのだ。
「しばらく見ないうちに、あやめちゃんは綺麗になったねぇ」
そう幸村に耳打ちしたのは、あやめを案内してきたのだろう、ねねだった。幸村は困ったように笑いながら、はあ、と気のない声で返答した。ただ、ねねとしてはその返答が不満だったようで、
「もう、お前も変なところで朴念仁なんだから。清正たちと同じだよ。ああそうそう正則はね、見た目はああだけれど、案外に女の子にはよく気が付く方なんだよ。三成たちの方がてんで駄目でねぇ。折角整った顔してるのに、これといった影がないんだから困ったものだよ」
ねねのお節介な発言に、こればっかりは幸村も、はぁ、と同じような相槌を打つしかない。そもそも、幸村にとっては清正や三成がどれほど整った顔なのか、それに比べて正則の顔が"ああ"というのは想像するしかなく、残念ながら幸村はこの手の想像力が人よりも乏しかった。
「幸村様にはそういう期待はしない方がいいですよ、おねね様」
このままねねの調子に巻き込まれてしまいそうな幸村に、手を差し出したのはあやめだった。さり気なく幸村の左側に立ちながら、
「幸村様が気が利かないのは昔っからですから」
と笑って幸村の手を引いた。このままねねに捕まってしまう前に、と、幸村は、では失礼します、と頭を下げてその場を辞した。
幸村は眼が見えなくなってから、ずっとあやめが己の眼の代役を務めてきた。幸村の肘の辺りを掴んで誘導する姿は慣れたものである。幸村の歩幅や歩く癖も知っている。どの範囲に物があったら危険なのか、障害物がある場合はどれぐらい先に声をかけておくべきなのか、どうやって物を示せばいいのか。そういった幸村の間合いを熟知している。幸村は人より空間把握能力が優れていて、これこれ、これだけの距離に何がある、と言えば瞬時に理解できた。ただ、その能力は、その距離を正しく言葉に出来るものが居てようやく成立する才能だ。そういう意味でも、あやめは幸村の目の代わりだった。目が見えなくなった分、補うように他の感覚が鋭くなったようで、あやめの気配を間違えることはほとんどない。
「結構大丈夫そうですね」
「うん?」
「幸村様は図太いですから、新しい環境でもうまくやっていけるとは思ってましたけど。やっぱり心配でしたから」
あやめがそう唇を尖らせれば、幸村は小さく笑った。二人が進む廊下には誰も通らず、これもねねの取り計らいなのかもしれなかった。好奇の目にさらされることは覚悟していたが、やはり見えない分、人の視線は厄介なものだった。
「皆、良い人ばかりだぞ?」
「幸村様はいっつもそれですね!お人好しにも程があります」
「半兵衛様は、」
「はい?」
「半兵衛様は何か仰っていたか?」
あやめは少しだけ躊躇うように、僅かに身じろぎをしながら呟いた。それも長年を共にしている幸村ぐらいにしか分からない些細な変化だった。
「石田三成様と仲良くね、とのことですよ」
「あの方は、本当、千里眼でも持っているのだろうか」
「碌なことに使わなさそうですけどねぇ」
順調に歩を進めていた二人だったが、あやめは足を止めた。引き止めるように、少しだけ幸村の肘を引っぱる。おそらくここが幸村に宛がわれた部屋なのだろう。中に入れば、あやめによる物の配置講義が始まるのだと思うと、少しだけ面倒だった。
「幸村様、」
「うん?」
「三成様のこと、気に入ったんでしょ」
確信のこもったあやめの言葉に、幸村はさあどうだろうか、と笑うばかりだった。