次の日の朝、清正は正則と連れ立って、ねねから聞いた幸村の部屋へと訪れていた。もちろん、正則は勝手に着いて来ただけだ。幸村は今から出掛けるようで、相変わらず若隠居のような小奇麗な格好であやめを伴っていた。
「幸村、」
と声をかければ、清正の方を正確に向いて、おはようございます、と軽く頭を垂れた。控えるように僅かに身を引いたあやめも小さく会釈をする。そのような丁寧な挨拶に慣れていない清正は少しばかり居心地悪そうに、けれどもそれを隠すように二人に近付いた。正則も同様のむず痒さを感じていたようで、挨拶を返しながら幸村の肩を軽く叩いていた。ただし、軽く、というのは常日頃の正則を知っている清正の基準であるから、多少は痛かったかもしれない。もちろん、幸村からそういった抗議はなかったけれども。
「秀吉様のところに行くのか?」
三成の性格上、朝一に秀吉に資料を提出に行くだろうことは確かだ。ただ、三成と清正たちの朝一では半刻は異なっている。幸村は、ええ、と頷いた。この穏やかな男が、次の戦では軍師を任されているとは到底思えなかった。
「なら、俺たちが連れてってやるよ」
正則が清正の横から顔を出しながら、そう提案する。そのまま軍議の席に居座ろうという魂胆が透けて見えたが、清正も同じ思いであったからあえて口に出すことはなかった。代わりに、幸村の隣りで佇むあやめに視線を向けた。あやめが案内することになっているのだろう、彼女の細い指は幸村の肘を掴んでいた。
「幸村を借りるが、いいか?」
それはあやめに対しての言葉だった。まさか自分に声をかけられると思っていなかったのか、あやめは目を少しばかり見開いて驚いていたようだった。けれども、それも一瞬のことで、すぐに笑みを作ったあやめは、
「では、お願いします」
と、幸村から手を離した。幸村も特に不満はないようで、お世話をかけます、とまたしても頭を垂れた。瞬時に正則が幸村の肩を叩いて、
「そういう堅っ苦しいのはなしで!」
と、無駄に大きな声で言う。幸村は少しだけ笑い声をこぼして、気を付けます、と頷いた。清正の周りには、こんな風に静かに笑う男はいなかった。女性らしいとは思わなかったが、柔らかい音だな、と単純に思った。幸村の笑い声は心地良いあたたかさがあったからだ。
行ってくる、と幸村が言えば、はい、いってらっしゃいませ、とあやめが当然のことのように手を振った。二人のやり取りは至極自然で、だから正則がそのようなことを言ってしまったとしても、何ら不思議ではないのだけれど。
「お前、あの子と夫婦なの?普通に美人だったけど」
清正は思わず正則を睨みつけたが、幸村は飄々としたもので、笑いながら、違いますよ、とはっきりと否定した。正直、正則に指摘されるまで、清正の頭には彼らが夫婦だとか、恋人同士だとか、そういった関係性を想像することすらなかった。仲の良い二人を知っていながら、だ。
「幼い頃から苦労ばかりかけています。きょうだいみたいなものですね。姉のような、妹のような、そんな関係です」
正則は、へぇ、と分かったような分かっていないような、適当な相槌を打つ。それにしても、と幸村が言葉を続けて、清正へと振り返った。見えていないのに、やはり幸村の目の先には間違いなく清正の顔があるのだから、流石と言うほかない。
「清正どのはすごいですね。あれは肝が据わっておりますので、中々驚いたりすることはないのですが。先は少し、びっくりしているみたいでした。貴重なものをありがとうございます」
それほど愉快だったのか、幸村は機嫌が良さそうにころころと笑っている。正則のように、とは言わないが、もっと大口を開けて笑えばいいものを、幸村の笑い声はどこまでも控えめだった。昨日といい、幸村は清正が慣れていない褒め言葉ばかり言うので、清正も思わず苦笑する。どう対処したらいいのか分からないのだ。それを誤魔化す為に、
「手、貸せよ」
と、ぶっきらぼうに言えば、
「いえ、一度通った道ですし、慣れねばなりませんので。赤子と同じです。つまづくなり転ぶなりした方が覚えが早いんですよ。お気遣いありがとうございます」
そう先に歩き出してしまった。差し出しかけた手で気まずげに頭をかけば、横から正則が肘で突っついてきて、離れる間際こそりと耳打ちをして行った。
「振られたな清正」
馬鹿で単純な奴の言葉だから、きっと他意も何もない、ただ現状に対しての言葉だったのだろう。それでも矢張り、腹が立ったことに変わりはなかったので、とりあえず正則の頭を殴り付けてやろうと思いながら、彼らの背を追ったのだった。
***
昨日、三成が執務室へこもったように、二人も軍の鍛錬場へと顔を出していた。日頃から厳しい訓練を行っているが、出兵が近いとなればその熱も更に増すというものだ。鍛錬は黙々と行っていたが、休憩時間となると別だ。既に真田幸村の存在は兵たちにも知れ渡っていた。休憩時間の気休めの一時だ、厳しく私語を窘めることもしないし、滅多なことでは会話の内容まで干渉しない。そこここから、真田幸村に対しての勝手な個々の意見が飛んでくるが、清正は知らん顔をしていた。羽柴家の結束は固いが、その中身は様々だった。純粋に秀吉を慕っている者、その軍師である半兵衛或いは官兵衛を、秀吉に仕えている清正たちを慕っている者。で、あるから、幸村に対しても、否定的な意見もあれば既に信じきっている者すら居た。前者は三成のような現実主義まがいの文吏派の者たちが大半で、後者は半兵衛信望者だ。それらを聞き流しながら、面倒だな、と清正は思う。次の戦の結果で、間違いなく彼らの評判は決まる。あいつに任せておけば大丈夫だ、と自信があればよかったのだが、残念ながら清正は、三成の戦の才をそこまで評価していなかった。うまくやる時もあれば、何故そんな失敗をするのだろうということをやらかす男だ。結局今の自分に出来ることと言えば、次の戦に勝ちますように、負けませんように、勝たずとも皆が認めるような戦になりますように、と願うことしか出来ない。己は今回、端から戦に参加させてもらえないのだ。
「あいつら、どうなると思う?」
正則は時々、清正の心を読んだのではないかと邪推させるようなことを言う。そう邪推だ。あれは本当に深く物事を考えていなくて、分からないことをそのまま口に出すだけなのだ。
清正はむすりと顔を顰めて、隣りに座り込んだ正則を見る。あいつら、とは訊かずとも分かっている。
「分からん。ただ、うまくやってもらわなければ困る」
「何で清正が困るんだ?」
そう指摘されて、さてどうしてだろう、と清正は思った。普通に考えれば、徳川攻略の為の初戦だ。初戦を負けで飾るだなんてことは、縁起でもない。分かってはいるのだ。頭では分かっているはずが、瞬時にその答えが浮かばなかった。きっと、敗戦によって彼らへの風当たりが悪くなることが嫌なのだろう。これまた単純な答えだったが、すると次には違う疑問が湧き出た。どうして、嫌なのだろうか、と。
黙り込んだ清正の顔を覗き込みながら、正則は、なあ、と答えを催促してくる。この男はあまり人の会話を覚えないくせに、その場その場でしっかりとした回答を求めてくる。言ってもどうせ理解しないだろうということは清正も分かってはいるものの、言葉にすることは厄介だな、と思った。人は言葉にした途端、それを自覚してしまうものなのだ。
「…言わん。自分で考えろ」
大きな抗議の声を上げた正則を無視して、清正は立ち上がった。休憩の終了を告げる不機嫌な声に従って、屯していた兵たちもまた鍛錬の再開に動き出したのだった。