一夜明け、三成は幸村の部屋へと足を運んでいた。話し合いをするには三成の執務室の方が広い分都合が良いのだが、城内の少々奥まった所にある。幸村には少しばかり酷だろう。それに何より、よく知らぬ人間を仕事場に入れられる程、三成は寛容ではなかった。
部屋の前で声をかければ、あやめは不在なのか、幸村からの返答があった。襖を開け、中の光景に三成は思わず目を見開いた。そこには畳み一畳程の古紙が広げられており、地図が描かれていた。丁度三成たちが攻略に乗り出した辺りのもので、地名だけでなく、山や小さな河川までも正確に記されている。少し目を凝らせば、三成や左近、資料を読んだ者しか知らぬ事象が事細かに記入されていた。まだ作成途中だったようで、幸村が最後の一筆を入れている。山の名前を書き入れて、幸村は満足そうに深い息を吐いた。
「こちらからお伺いしなければいけないところを、申し訳ありません」
幸村は筆を置きながら、三成へと向き直った。三成は幸村の挨拶には返さずに、じっと地図を凝視している。三成が文字で綴った地形を見事に再現していた。
「これは、お前が書いたのか?」
これ、と示しても見えないことは分かってはいるが、そうせずにはいられなかった。三成が想像していた地形と寸分の狂いもなく、目の前に描かれている。絵の才能など皆無な三成にとって、真似のできぬ仕儀である。
「はい。そう難しい地形ではありませんでしたので、手慰みのようなものです。ああそれよりも、茶をお持ちしますね」
「不要だ、さっさと本題に入りたい」
「はい。ではどうぞ、お座りください」
そこには、幸村と向かい合う格好で既に座布団が置かれていた。更には、地図の文字の位置は三成側から見た方が読みやすい。三成の来訪を知らぬはずが、どうにも手配がよかった。三成は内心首を傾げつつ、出来の良い地図を見下ろしながら先に口を開いた。
「単刀直入に訊く。この戦、勝てるか?」
「三成どのは、最初から負けるおつもりで戦に臨むのですか?」
問いを問いで返されて、思わず三成は眉を寄せた。だが幸村の指摘も尤もだ。少々険を増したが、それでも平素とほとんど大差ない声で、三成は言葉を続けた。
「負けたくはない。だが、お前は知らぬだろうが、俺は戦は不得手だ。その俺が大将で、戦に勝てるのか?」
「三成どのは、勝ちたいですか?それとも、負けますか?」
幸村は立ち上がって、何やら棚の引き出しを探っている。見えていない筈なのに、幸村は机に足をぶつけることもなく、探し物を掴んで再び元の位置に腰を下ろした。彼が探していたのは、自軍と敵軍とを見立てた駒のようだった。幸村は膝元にそれを並べながら、再び口を開いた。
「正味な話、この戦の勝敗は決して重要ではないのです。ただ、対徳川への明確な意思表示として必要なだけです。勝敗によって今後の采配が大きく異なるわけでもありません。言ってしまえば、勝とうが負けようが、どちらでも良い戦なのです」
「そのようないい加減な…!」
「ですがこれは、あくまで羽柴のお家にとっての損得です。三成どの、此度の戦、勝ちたいですか?」
視線を落としていた幸村が、ゆっくりと三成を見据えた。彼の目は包帯で覆われているのに、そこから意志の強さが伝わってきた。三成は思わず身を乗り出しながら、再び問う。
「勝ちたい。幸村、出来るのか?」
「ええもちろんです。勝ち戦は得意でございますれば」
***
軍の編成や出陣の時期、兵糧や弾薬の手配など、早めに決定しておかなければならない事項を話し合い始めると、時間はあっという間に過ぎてしまった。三成が幸村の部屋に顔を出した時などは、まだ朝日も昇りきっておらぬ時分だったというのに、気が付けば障子が夕日色に染まっていた。季節は春先である。陽が落ちるのは決して早くはないが、既に陽が傾き始めていた。三成はようやく長居していることに気付いて、慌てて腰を上げた。家臣たちにはすぐに帰ると伝えてあったからだ。
「続きは明日だ。大体の骨組みは出来たからな、明日は具体的なことを決めるぞ」
そう告げてから、ふと家臣の姿が脳裏を過ぎった。軍の編成を決めるのなら、自分より余程詳しい人物がいるではないか。
「島左近という男を覚えているか?あれは今、俺が召し抱えている」
「存じております」
そう返答した幸村の声はひどく平坦だった。まるで冷静さを取り繕っているかのような調子だ。
「それならば話が早い。明日は左近も同席させるか?」
幸村は言葉を考えるように、少しだけ顔を伏せた。その仕草は、同様のことを左近に訊ねた時の彼と全く同じだった。何に彼らは怯えているのだろうか。
「いえ、そのうちに、機会がある時にでも」
常にはきはきと言葉を発する幸村にしては、歯切れが悪い。苦虫を噛み潰してしまったような表情を左近は浮かべていたが、幸村もまた同じなのかもしれない。彼らを隔てているのは、あまりにも変わりすぎてしまった自分たちを取り巻く環境だろうか。
三成の立場を慮ってか、少しだけ沈んでしまった空気を繕うように、幸村は言葉を続けた。
「会いたくないわけでは、決してないのです。左近どのにはたくさんお世話になりましたし、たくさん勉強させていただきました。ですが、この目のことも含めて、わたしはその、色々と変わってしまいましたので。良くも悪くも、昔のわたしを知っている左近どのとは、少々顔が会わせにくいのです」
それは左近も言っていたことだ。失明して以来、どうやって彼が生きてきたのか、生き延びてきたのか、分からないのだと。申し訳なさと気まずさがない交ぜになっているのだろう。幸村はそわそわと手の内で駒を遊ばせていた。木で出来たそれは、幸村の手の中でこすれ合って、かちゃかちゃと音が鳴る。三成は思わず大きなため息をついた。
「お前たちのことだ、俺はとやかく言わん。ただし、仕事に差し支えなければ、だがな」
長々と邪魔したな。そう素っ気無く退室していった三成の背中に視線を向けながら、幸村は困ったように笑うのだった。