朝一番に主である三成を幸村の元へ送り出した左近は、散乱した室内を見回した。なんとはなく違和感を感じたからだ。三成の執務部屋は、次の戦の資料で物が溢れ返っている。忙しい時期でなくとも、三成はああ見えて面倒臭がり屋なので、書類は手の届くところに置いたがるし、すぐに使うからと資料を元の書棚に返却するのも遅い。書き損じの多い性格でもあるので、失敗した紙くずがぐしゃぐしゃに丸められて、三成の定位置の周りを囲っている。ごみ箱はもちろん三成の手の届く範囲にあるが、すぐにいっぱいになってしまう。強引にねじ込まれた紙くずの多さに左近も思わず苦笑した。
見慣れた光景である。常と変わらぬ執務室の姿である。それなのに、何かが違う。違うというか、釈然としないというか。左近は首をひねりつつ、畳の上に散らばっている紙くずの一つを拾い上げようと屈み込んだ。暇な部下たちを集めて、落とし紙に使えるように伸ばさなければならないからだ。
その時だった。
「あの島左近も勘が鈍ったかにゃ〜。あたしが背後に立っても気付かないなんて、平和呆けしてますよ〜?」
背後からの声に、左近は慌てて振り返った。聞き覚えのある声は、左近の記憶にある彼女と見事に一致したからだ。ここ数年、彼女のことなど思い出したこともなかったというのに、主からあの男の名前を聞いた途端、当時のことを鮮明に思い出すものだから、己という人間の薄情さを知った。いや、自分はきっと、出来ることなら思い出したくはなかったのかもしれない。
振り返った先には果たして、くのいちの姿があった。梁にもたれながら、左近の記憶と寸分変わらぬ姿でそこに居て、彼女特有のにんまりとした笑みを浮かべている。忍びの年齢は往々にして分からぬものだが、女忍びとなれば尚更だ。まず歳を取らない。時間を感じさせない。彼女は左近の記憶の中の彼女のままだ。少女と女性の狭間の姿でそこに佇んでいる。
何故だか、あまり驚きはなかった。もちろん、知らぬ間に背後に立たれる、ということに対しての動揺はあったが、彼女が唐突に己の目の前に現れても、左近はすんなりとそれを受け入れられることが出来た。おそらく、幸村がこの城のどこかに居る以上、彼女が追随していることを連想していたのだろう。
「このところ、紙とばっかり対峙してたからな、身体が鈍るのも仕方ないだろう。それはそうと、久しぶりだな。まだ幸村の後、追っかけ回してんのか?」
数年来だというのに、飛び出した言葉はその年月を感じさせなかった。くのいちもまた、昨日も同じ会話をしたような調子で、軽口を叩いた。
「ご挨拶だにゃ〜、違いますよぅ。確かにまだ幸村様に仕えてるって格好になってますけど」
「今までどうしてたんだ?」
「幸村様にくっ付いて、こっちに来てましたよ。けど、あの生活がこれまた目の当てようがないくらい暇で暇で。赤字商人のご隠居だって、あんな枯れた余生送らないですよ。で、呆れるくらい暇なもんだから、今はおねね様の使いっ走りみたいなことやってます。身体動かしてる方が性に合ってるもんですから」
「…そうか」
そう呟いてから、左近は少しばかり言いにくそうに、ようやくそのことに触れた。きっと、一番に訊ねたかったことだろう。幸村の昔を、左近同様知っている誰かに。
「…幸村はどうしてる」
くのいちは、大人になりきっていない少女特有の大きな目で、左近の表情をじっと見つめた。左近の感情を読み取ろうとしているかのようだった。彼女は昔から、幸村のことに関してのみ、過保護でもあり何かと過剰になりがちだったからだ。きっと、今の左近が、幸村の為になるか否かを見極めようとしているのではないだろうか。合格だったかは分からないが、くのいちは飄々とした調子を崩すことはなく言葉を継いだ。
「一時は生きたまま死んでるような状態でしたけど、今はなんとか持ち直してますよ。昔っからそうですけど、色んな誓約に縛られて生きてる人ですから」
「誓約?」
左近は思わず訊ねたが、くのいちはにんまりと笑って、
「ひ・み・つ」
と、殊更ゆっくりと単語を紡いだ。その表情だけを切り取って言えば、まさに悪戯が成功したような子どもそのものだ。
「左近さんでも教えてあげない」
態度は忍びらしからぬ軽さだが、彼女も一流の忍びだ。口は固い。聞き出すのは無理だろうと早々に諦めた左近は、この話題にはもう触れようとしなかった。
「次の戦、お前も参加するのか?」
「うんにゃ、あたしが出る程のもんじゃないから。こっちで待機してろーって幸村様から直接言われちゃった。今日も、別に用件があったわけじゃないし。幸村様がよろしくって言ってたから会いに来ただけだもん」
「幸村は、」
その先の言葉をどう続けようとしていたのか、左近も分からない。ただ、言葉を遮るように、くのいちはいつの間にやら間合いを詰めて、左近の顔を覗き込んでいた。あまりの近さに、思わず息を呑んだ。彼女の言う通り、身体が鈍っているようだ。くのいちは、どこか猫の目を連想させるあの大きな目で、左近の言葉を封じ込んでしまった。
「あたしが言えるのはこれっくらい。下手な先入観は本質を見誤らせるんじゃなかったっけ?あとはさ、自分の目で見て判断してよね、名軍師さん」
くのいちはそう言って、ひらりと身体を翻した。その動きに合わせて、高い位置で括っている彼女の髪も揺れた。ああ、髪伸ばしてるのか、と、ようやく彼女の身体にも相応の年月が流れていることを覚った。
「次の戦は扱き使われるらしいから、よっろしくねん。それじゃあ、あたしはこの辺で。どろん」
彼女はそう言って、文字通り姿を消した。相変わらずの様子に、左近も思わず苦笑するのだった。