いよいよ出陣を明日に控え、三成は眠れぬ寝床から抜け出した。初陣でもあるまいし、と己を叱咤してみたものの、胸の内に広がった小さな不安は取れはしなかった。気のせいと思いたいが、胃の下辺りが僅かにキリキリと痛む。元来、腹回りは丈夫ではないのだ。無意識に人気のない廊下を歩いていたのだが、ここ数ヶ月の習慣だろうか。三成の足は自然と幸村の部屋へと向かっていた。
幸村の部屋の前についたものの、声をかけるのは躊躇われた。深夜のことではあるし、約束もしていなければ、三成自身にもこれといった言い訳がなかったからだ。策の通りに戦運びができるか不安になったと言ってしまえば、ここに漕ぎ着けるまでに昼といわず夜といわず語り合ったあの日々は何であったのだろうか、という心持ちがする。更に言うならば、幸村に幻滅されるような気がして、正直に言い出すことはできない。さっさと戻って布団を被っていよう、そうすればいずれ睡魔がやって来るだろうと、踵を返したその時だった。
「…三成どのですか?」
そう、中から声がした。幸村だ。気配に敏い幸村は、部屋の前で無言のまま苦悩している三成の気配を感じ取ったのかもしれない。幸村に小姓はついておらず、生活の細々としたことはあやめか、幸村自身が始末しているらしい。三成が彼の部屋に来訪する時も、あやめが取り次ぐよりは、今のように幸村が直接声をかけることの方が多い。今の声音も、三成がよく聞いていたものだ。なにやらその声に安堵して、三成はいつものように、ああ俺だ、と声を発してしまった。深夜のことだ、もちろん迷惑だろうし、幸村も寝ていたのではないだろうか。にも関わらず、幸村はいつもの穏やかな声のまま、文句も不満も垂れることなく、
「どうぞ、お入りください」
と、三成の入室を促したのだった。
部屋の中は暗く、三成が来訪した時のみ照らされる灯台にはもちろん、火はついていない。目の見えぬ幸村には必要のないものであったし、もし火がついた状態で躓いてでもして倒してしまったら大惨事だ。今、火を、と立ち上がろうとしている幸村を、いやいい、と制して、手慣れた様子で三成は灯台に火を灯した。小さな灯りではこぢんまりとした部屋ですら全体を明るくすることはできず、部屋の出入り口辺りと部屋の中央を薄ぼんやりと照らしている。そこには布団を敷かれた様子もなければ、隅に寄せた形跡もない。この男は暗闇の中で何をしていたのだろう。そう疑問を抱くのは当然のことだったが、三成がそれを切り出す前に、幸村が口を開いた。
「いよいよ明日ですね」
幸村はこうやって、よく三成の核心を突く。だからと言って、そこから追求してくる様子はなかった。ただ今思ったことを口に出しただけなのだろう。三成は動揺を取り繕いながら、
「そうだな」
と、短く相槌を打った。
「直接赴かぬわたしの言葉を信じろというのは、虫の良すぎる話だと重々分かってはいます。ですが、どうか御自分と、御自分の家臣を信じてください。あなたは、必ず勝ちます」
三成は思わず顔を上げて、幸村を見た。相変わらずその目には包帯が巻かれていたが、幸村の顔はこちらを真っ直ぐに見つめていた。幸村の誠実さが苦手だと思うのは、こういう時だ。あまりに真っ直ぐに過ぎるのだ。これでは、不安を抱いているこちらが不埒というものではないか。
「お前は俺の心が読めるのか?」
「まさか」
幸村は大仰に驚いた声を立てた。三成とて本当にそう思っているわけではない。ただ、そう錯覚させるものが幸村にはあるのだ。
「少し声が震えていらっしゃいましたから。実力も生まれも知れぬ男の言葉に従うのは、やはり不安でしょう。わたしも三成どのの立場であれば、そう思いますから。三成どのの心中を考えれば、そう難しいことではありませんよ」
三成は幸村の言に押し黙って、小さく呼気を吐き出した。幸村個人を信用していないわけでは、決してないのだ。ここ数ヶ月、密度の高い付き合いをしたという自覚が三成にはあった。彼が有能であることは既に分かっているし、彼の人柄も多少は分かっているはずだ。彼を信じていないわけではないのだ。ただこれは、三成と幸村という極めて個人に絞られる話であって、大将・石田三成と軍師・真田幸村の相性とは異なる。戦が本当に彼の組み立てた通りに運ぶのか、それは蓋を開けてみなければ分からない話であって、戦をしてみなければ真田幸村という軍師の才能もまた、分からないのだ。
黙り込んでしまった三成に何を思ったのか、幸村は再び口を開いた。
「少し、話をしましょうか。これはわたしの想像ですので、他言は無用なのですが、」