幸村が予想した通り、出陣から約一月後、三成は勝利の報を引っ下げて帰還した。その知らせに湧き立つのは城下町や城中のみで、秀吉や官兵衛、此度の戦のほとんどを采配した幸村は、悠然とその知らせを聞いた。まるでそうなることが分かっていたかのような様子に、清正などは首をかしげたものである。幸村が軍師として采を振るうのは初めてのことであろうに、秀吉たちには既にその信頼があるように思えたからだ。やはり清正の中では、よく分からない男、という印象が未だに根強い。

 さて、ほとんど兵を減らすことなく凱旋を果たした三成だが、今さっき主を初め諸将に報告を終えたばかりだ。既に場は解散しており、広間からは順々に皆が立ち去って行く。その中にあって、皆の流れに逆らうように上座へと近付き、主・秀吉の近くに座していた幸村の側に寄った。幸村も足音に気付いたのか、座った状態のまま、顔だけを三成に向けた。
 実を言うと三成、早く幸村と話がしたいと、ずっと思っていたのだ。戦は勝った。快勝であった。ぴたりとはいかずとも、そのほとんどが幸村の想像通りとなった。これは興奮するなという方が無理な話だろう。とにかく、この興奮を幸村に伝えたかったのだ。そう焦っていたからだろうか、いつもならば一声かけてから幸村に接触する三成だが、今はそれすらもどかしかったようで、座っている幸村の前に膝をついて、その腕をがしりと握り締めた。驚いたのは幸村だ。気配で感じ取ってはいたようだが、急に腕を掴まれるとは思っていない。いつもならば目敏く気付く三成も、今日ばかりは失念していたようで、
「話がしたい」
 と、口早に切り出した。ここから近いのは、幸村の部屋だ。ならばわたしの部屋に、と促されるのは自然な流れであった。幸村がそう答えるなり、三成は顔に似合わぬ自慢の怪力で幸村を引っぱり上げ、半ば引き摺るようにして退室して行った。それを眺めていた清正と正則の視線には、やはり気付いていないようであった。

 部屋につくなり、三成は興奮した様子を繕うこともせず口を開いた。腕を掴んでいることすら忘れているのか、先の広間からずっとその手は幸村に繋がれたままだ。幸村もそれを指摘することなく、座りながら語り始める三成に顔を向けている。
「お前は、すごいな!戦はお前の言った通りになった!まるで夢を見ている気分だったぞ。左近の隊が崩れる振りをする様子から、敵を押し包む様から、万事が万事、お前の言った通りだった!俺は戦慄すらした程だ。お前の戦眼には、ただただ頭が下がる」
 殊勝な物言いに幸村も慌てたのか、そんなことは!と繋がっている手で三成の腕を軽く押した。そこでようやく、ずっと幸村の手を掴んでいたことに気付いたらしく、す、すまん!と幸村の腕を解放した。興奮のせいか、三成が思っていた以上に強く握り締めていたようで、三成の指の跡が赤く残ってしまった。申し訳なく思った三成が、もう一度、すまん、と赤くなっている箇所を撫でたが、幸村は気にした様子もなく、笑い声をもらしながら、大丈夫ですよ、と言うばかりだった。こうしてみると、あの戦を采配した人物には到底思えない。だが三成は、彼が密に作戦を練っていたこと、兵の鍛錬の方法まで指示を与えてくれたこと、更には、彼の言うように戦が動いたことを知っている。竹名半兵衛の後継にこれほど相応しい人物もいないだろう。彼らは幸村の才能を全て見抜いていたのだ。
「俺はお前に謝らねばならぬな。お前には色々とぶしつけを言った。あれは俺の弱さだ。すまなかった」
 清正辺りが見たら、明日は日ノ本が滅びる、と身体を震わせたかもしれない。けれども幸村は、やはり小さく笑いながら、
「買い被りですよ。わたしが無名なのは確かですし、今回のこともただの予想です。偶然に過ぎません。本当は戦前にあのような不確かなことを申すものではありませんでした。自分の軽挙を、今は恥じております」
 むしろそう言って頭を垂れた。今度は三成が慌てる番で、軽く腰を浮かせて、強引に幸村の肩を掴んで顔を上げさせた。近くで包帯に覆われている幸村を見、先日清正の話がふと脳裏に過ぎった。この男は一体どのような顔をしているのだろうか、と。胸の中に突如として湧き上がった疑問は、無意識の内に言葉として体外に飛び出していた。
「お前の目は、本当にもう見えぬのか?」
 唐突のことである。戦の話をしていた筈が、唐突に己の身の上の話になって、幸村は僅かに首をかしげた。その様子に、突拍子もないことを訊ねたのだとようやく自覚した三成は、誤魔化そうと言葉を強引に綴った。
「いや、治療次第で見えるようになればと思っただけだ!一度医者に診させよう、全快は無理でも多少は回復するやもしれん」
 三成は幸村の肩から手を離して、再び腰を下ろした。幸村は僅かに顔を伏せて、
「三成どのはお優しいですね」
 と、三成の言とは関係のない言葉を発した。残念なことに石田三成、仕事の鬼だと言われて恐れられることはあっても、そのように褒められたことは一度としてなかった。よもや自分の聞き間違いではないだろうか、とすら思った程だ。確かに家臣団からは慕われているが、それは三成の実直な人柄が好かれているからであって、家臣団に対しても常に厳しく振舞う三成だ。当然、優しい、などという言葉からは程遠いのだ。
「今、なんと言った?」
 だから、こうして三成が聞き直しても、彼には全くの落ち度はない。あるとすれば、彼の性格上の問題なのだが、今更変えられるものではない。きっと、おはようとにこやかに挨拶をするだけで、家臣団は恐れ慄くに違いない。それは、石田三成らしからぬことだからだ。
 幸村は何故聞き返されたのか分からぬ様子であった。からかうでもなく、皮肉を言うでもなく、ただ真っ直ぐに三成へと言葉を告げた。
「三成どのは、お優しい方です、と、そう言いました。優しくて、真っ直ぐで、わたしにはとても眩しいお方です」
 目は見えませんけど、と幸村はまた笑った。それはお前だろうに。俺がいつ訪ねようとも怒った雰囲気すら見せず、俺の癇癪に巻き込まれようとも笑って、俺の言葉の一々を真剣に受け止めようとするお前こそ。三成はそう言い返してやりたかったが、生憎とどれ一つとして言葉にならなかった。慣れていないのだ。誰かを手放しで褒めるなど。三成は今更ながら、自分の性分を恨めしく感じた。
「わたしはきっと、三成どののようになりたかったのでしょう。何事に対しても真摯にありたい」
 幸村、と声をかけようと口を開いた三成だったが、それよりも先に名を呼ばれてしまった。幸村の声が発する、
「三成どの、」
 という音は、三成の心に真っ直ぐに染み渡り、反論をさせない。決して特別声が大きいわけでもないのだが、幸村の声には不思議な強制力があった。あるいはこれが、戦場慣れした鬼の妙技なのか。
「わたしは嘘をついています。わたしは、三成どのが思っているような男ではありません。保身の為に嘘をつき、嘘をついていることに怯えている、情けない男なのです」
「…ならば何故、俺にそれを言う。嘘をついているなど、言わねば分からぬ」
 幸村はいつの間にか伏せ気味になっていた顔を上げて、口許だけを笑ってみせた。それは笑顔というよりは、愛想笑いのように思えて、三成は言いようのない不安を覚えた。修羅か阿修羅のようとすら言われていた男が、こうも果敢なく微笑むだろうか。
「三成どのに、嫌われたくないからです。三成どのは嘘がお嫌いでしょう。だから、真実を知っていただきたかったのです。少なくとも、嘘をついているということだけは真実ですから。ふふ、詭弁ですね」
 幸村は詭弁と言うが、こんなにも拙くて温かい詭弁があるだろうか。子どものようなことを言う、と三成は思った。嘘をついていることへの憤りは、何故だか沸かなかった。ただ、嘘をついているのだと言ってのけたこの男の真摯さの方が、三成には印象を与えた。変な男だ、と、心の中で笑ってしまった。
「ならば何故、嘘をついている?ここまで暴露してしまったのなら、もう繕う中身を言っても良いのではないか?」
 そう言って、幸村の手に己のそれを重ねた。無意識であった。幸村は唐突に触れた熱に身体をびくりと震わせたが、その温もりを振り払うように、ゆるゆると首を振った。
「約束をしたのです」
「約束を守るには、嘘をつく他ないと?」
 幸村はまたしても視線を下げて、小さく、
「はい、」
 と、頷いた。殊勝な幸村の態度に、なんだか滑稽な心持ちになった三成は、思わずふっと笑い声をもらしてしまった。
「お前は変な奴だな。俺はどうやら、変わり者が好きらしい。一人、そういう友人がいる」
「三成どのは、」
「なんだ?」
「ちゃんとお笑いになられるのですね。初めて声を聞きました。嬉しいです」
 幸村がそう声を弾ませるものだから、三成もじわじわと羞恥がやってきて、幸村に見えていないと知っていながら、懐の扇子を取り出して赤くなっているであろう顔に微風を送るのだった。


 そうして、初めて会った頃とは比べ物にならぬ程打ち解けた二人は、終始和やかな雰囲気だった。思いもかけず長居をしてしまったことに気付いた三成が、そろそろと腰を上げかけたのだが、そう言えばあまり戦の話をしていないことに思い至った。
「話は戻るが、此度の戦は、お前のお陰で勝つことが出来た。褒賞は秀吉様から賜るだろうが、俺個人としても何かお前に報いたいと思う。欲しい物があったら、遠慮なく言ってくれ。だが、俺もまだまだ少禄の身だ、高価なものは無理だぞ」
 三成はそう提案したものの、幸村は気のない様子で、はぁ、とため息と大差ない呼気を吐き出しただけだった。部屋を見る限り、あまり物欲がないことは分かるし、彼の普段の姿を見ていても、あまり煌びやかなものは好まぬようだった。困った様子で、
「そういった物は、特に思い浮かばぬのですが」
 と言う始末だ。三成は三成で矜持がある。半ば意地になって、
「ならば、名物の茶器や刀はどうだ。あって困るものでもあるまい」
 と、助け舟を出すのだが、あって困るものではないが、なくて困るものでもない、というのが幸村の言い分だ。確かに、必要最低限のものを幸村は既に揃えている。だが、ここではいそうですか、と引き下がれぬのが三成の頑ななところだ。幸村に対しては何故だか良い方へ作用している(と思いたい)この律儀さも、同僚達に言わせれば融通の利かぬ頑固者、という印象しか与えない。幸村もここ数ヶ月の付き合いで既にそれを理解しているらしく、うんうんと何か良い案はないものかと唸っている。その様子に、急がずとも良い、と言おうとも思った三成だが、ここで問い詰めておかねば、次も同じように先送りにされてしまうような気がして、幸村からの何かしらの要求をじっと待っている。

 どれほどそうしていただろうか。幸村は遠慮気味に、
「では一つだけ、」
 と、ようやく唸り声を止めた。三成は思わず身を乗り出して、彼の言葉を聞いた。
「わたしと、お友達になってください」
「……は?」
 またしても、自分は何か聞き間違えたのだろうか。そう思った三成からは、呆けたような情けない声が出た。幸村はくすくすと笑いながら、
「ですから、わたしと友人になってください」
 わたしへのご褒美はこれがいいです。
 そう、幸村は実ににこやかな声で言う。友人が少ないという自覚のある三成にとって、その提案はむしろ嬉しいものではあったが、
「俺でいいのか?」
 と、訊ねてしまうのは、まさに自覚がある故、だろう。俺と親しくしたところで、有益なことは何もないぞ、と説いて聞かせようとすら考えた程だが、幸村はやはり穏やかな声のまま、
「もちろんです。三成どのが良いのです」
 と、きっぱりと言うものだから、その有り難い説法を何とか飲み込んだ。代わりに、変な奴だな、と笑いながらこぼせば、三成どのもそうですよ、と幸村から言われてしまい、無性に面白くなって、二人して声を立てて笑ったのだった。










  

11/07/18