今回の羽柴対徳川の戦だが、事の発端は彼らと無関係のところから始まっていた。そもそも、主君である織田家と同盟を結んでいる徳川とが戦にまで踏み切ったのは、主君・信長の次男・信雄(のぶかつ)に原因があった。信長には数多くの息子がいるが、その中でも次男に位置付けられているこの信雄が、突如として織田家を出奔したのだ。子も家臣同様厳しく接する信長は、それはそれは激怒した。連れ戻して腹を斬らせろ、それが無理なら討ち取ってしまえ、というのが終始一貫しての命令だった。家臣達にして見れば、主の子である信雄を討ち取ることに躊躇いがある。もたもたと現状を先送りしていた矢先、彼は庇護を求めて徳川を頼った。そこは律儀者と名高い家康である。織田からの再三の通告にも、頼られたからには身柄を渡すわけにはいかず、と頑固な姿勢を貫いているが、迷惑なのは徳川家も同じだろう。そうこうしている内に、痺れを切らした信長から秀吉のもとに命令が下った。何としても、信雄を予の前に引っ張り出せ、というのがその中身だ。結果第一の信長である、手段を問わぬのはいつものことで、秀吉は渋々と腰を上げた。だがそこは秀吉である。やるからには主の要望に応える自信があった。
こうして、家康は織田家の親子喧嘩に巻き込まれる形となってしまったのだ。
もちろん、その内情を知る人間は上層部だけだ。徳川は未だ信用ならず、と思っている者も少なからずおり、此度の戦は本当に徳川征伐だと思っている者も多数居た。同盟国だろうと約定を交わしていようと、平気で戦を仕掛けるのが織田信長の恐ろしいところであるからだ。
さて、軍議の席である。上座には秀吉が座り、寄り添うようにねねの姿もあった。一段下がったところには、羽柴秀長や秀次といった羽柴縁者の者、黒田官兵衛や幸村といった軍師格の者がずらりと並んでいる。羽柴家は合議制だが、人材の宝庫となっている羽柴家でも、独自の軍略を持っている者は少ない。軍議と言っても、既に打ち合わせ済みの戦略を官兵衛が語り、それに合わせて兵をどう配置するかの確認の場となっている。今日も終始そのような流れで、いついつ頃に出陣する、第一陣はどこそこの隊で、などといったことを伝えているだけだ。皆も官兵衛の軍略は絶対だという信頼があり、反対意見は皆無と言って良い。
まだ戦には猶予がある。今日も簡単な触りを伝えただけで、それまで鍛錬に励むように、と激励の意味を込めての軍議であった。官兵衛からの伝達事項も済み、そろそろ解散だろうか、と皆の間にそんな空気が流れた時だ。今まで黙って官兵衛の話を聞いていた秀吉が、おもむろに口を開いた。
「ま、今日はこんくらいでええわ。三成たちの頑張りのお陰よ、戦は有利に進むじゃろ。みな、戦まで今以上に励むんじゃぞ」
そう言って立ち上がったが、あっ、と声を上げて、思い出したかのように幸村へと振り返った。その視線を受けた幸村が、僅かに強張る。それは一瞬の出来事で、離れて同席している清正や三成が気付くことはなかった。
「幸村、おみゃーさん、今回は本陣に詰めてくれ。官兵衛は別件でちと頼みごとがあるゆえ、な。おみゃーさんの軍略、楽しみにしとるで」
ざわりと場が騒然となった。当然だ、幸村の目が見えないことは、既に皆が知っていることだ。城にいて戦の采配が取れるとは誰も思わないが、彼を従軍させるにはいささか危険だというのもまた、皆の共通認識だ。けれども幸村は、どよめきが広がる広間の中、皆に聞こえる声で、
「承知仕りました」
と、手をついてその命を受け入れた。その返答に当然だとでも言いたげに頷いた秀吉は、そのまま退室しようと歩き出している。
咄嗟に、
「秀吉様!」
と、声をかけたのは三成だった。秀吉も目をかけて可愛がっている子飼いの一人から制止され、一度は足を止めた。が、振り返ることなくそのまま退室して行った。その後を追い掛けようと三成も立ち上がったが、彼が足を動かすより先にねねが三成の名を呼んで、その行動に待ったをかけた。
「なんですか、おねね様。俺は、」
「うちの人にも考えがあってのことだよ。あんまり訊かないであげておくれ」
「ですが!」
ねねは横に頭を振る。何を言っても無駄だよ、とその表情が物語っていた。三成は渋面を作って、苛立ちを隠せぬ様子で退室の言葉を告げて去って行った。それが合図となったのか、場の成り行きを眺めていた諸将もばらばらと自分の持ち場へと戻って行った。
「なーんか、叔父貴の様子、おかしくなかったか?」
軍議からの道すがら、そう切り出したのは正則だ。思わず清正は周りを確認したが、辺りには自分たち以外の人影はないようだった。こういった気遣いもせずに喋り出す正則を注意しようとも思ったが、秀吉の態度に疑問を抱いたのは清正も同様だ、その説教は頭の隅に追いやられた。
「幸村に対して冷たいって言うか、試してるような感じっていうか」
相変わらず、見ていないようで、感覚で人の機微を察している男だ。その感想は、清正と至って同じであった。だが、腑に落ちない秀吉の様子に同意するのは主に対する不審を抱いているように感じられ、清正は押し黙ることでその返答を避けた。
(確かに、秀吉様は人の可能性を試しては面白がるお方ではある。でも、あの目は違う。もしかして、幸村を疑ってるのか?)
そんなはずはないだろう、と思いながらも、幸村を見る秀吉の目を思い出しては不安に思う清正だった。