正則とも分かれ、清正は幸村の部屋へと顔を出した。声をかけようと襖の前に立ったが、先に開いて幸村が姿を現した。一瞬、気配を感じ取ったのだろうか、とも思った清正だったが、軽装に着替えている幸村の格好から察するに、丁度外出するところだったのだろう。
「出掛けるのか?」
名乗りもせずにそう訊ねた清正だったが、幸村は驚いた様子もなく、
「はい、半兵衛様のところに。本格的に戦が始まる前に、顔だけ出しておこうと思いまして」
そう言って、清正どのは?と反対に問い掛けられてしまった。軍議の件もあり、幸村の様子を見ておこうと思っただけで、特にこれといった用事もない。返答に困った清正は、幸村の問いには答えず、
「なら俺も一緒に行く。お前一人で行かせるには心配だ」
そう言って幸村の隣りに並んだ。
「ですが、何か用事でもあったのでは?」
「別に、俺は三成ほど忙しくねぇし。どうせ、お前一人で行くんだろ?気になって他事に集中できねぇよ。それとも、俺が一緒は嫌か?」
この問い掛けは些か卑怯だ。幸村の場合、仮に嫌だとしても、そうとは言えない。
案の定、
「いえ。ただ、ご迷惑ではないかと」
と、言う始末だ。清正は少しだけ申し訳ない気分になったが、それを覚らせないよう表情を作る。
「迷惑じゃねぇから、言ってるんだろうが」
その時、何が面白かったのか、幸村がくすくすと笑い声をもらした。思わず、何が可笑しい、と少し険のこもった声で訊ねれば、幸村は笑いをなんとか収めながら、
「過保護だなあと思いまして。三成どのの仰る通りです」
「あいつは俺の悪口ばっか言ってるんじゃないだろうな」
「まさか。よく見ていますよ、三成どのは。清正どののことも、正則どののことも」
もちろん、清正どのだって、三成どののことはよくご存知じゃないですか。
そう、からかうでもなく、柔らかな調子で言われて、なんと返したらよいのか分からない清正は、さっさと行くぞ、日が暮れる、と幸村の歩を促したのだった。
半兵衛の庵に着くと、幸村は半兵衛と簡単な挨拶を済ませただけで、すぐに奥へと消えて行った。これでは、半兵衛に会いに来たというよりは、半兵衛の世話をしている者へ会いに来たようなものだ。取り残された清正は、そう言えば初めて幸村に会った時に申し出た薪割りが途中だったことを思い出した。それを理由に、半兵衛と二人きりの状況から逃げようと思ったのだが、そこは天才軍師・竹中半兵衛だ。家の者がやったから行ったところで仕事はないよ、と先手を取られてしまった。上げかけた腰を再び下ろして、落ち着かなさげに辺りを見回した。家の者と話し込んでいるのか、幸村は中々戻っては来なさそうだ。来て早々、早く帰りたい、という表情の清正の顔を、半兵衛は楽しげに眺めている。やはりこの病人、病人らしいところが全くない。今も布団の上に寝転がって、枕に頬杖をついては清正の表情を見て、面白いおもちゃが来たと喜んでいるようなのだ。
「幸村はあっちでもうまくやってるみたいだね」
幸村の人当たりの良さを一番よく知っている半兵衛だ、その言葉には確信がこもっていた。
「そうですね。幸村の悪い評判はあまり聞きません。やはり、先の戦勝のおかげでしょう」
「俺の目は確かだもの。幸村の腕は間違いないよ。ただ、放っておくとすぐに無茶をするからね、ちょっと心配だよ」
「それは、」
清正もそう感じ取っていたのだ。根が真面目なのだろう、軍議の席はいつもぴんと伸びた姿勢で挑んでいるし、常に敬語を欠かさない。彼の纏う空気は始終穏やかで、良くも悪くも隙がない。槍を片手に武功を立てていた者らしく、身体は丈夫に出来ているのか、朝から晩まで仕事をしていても身体を壊した、ということも聞かない。だからこそ余計に心配だとは思うのだが、それをこの軍師に言うには、些か憚られた。というか、からかわれそうな気がする、といった懸念の方が大きい。
「幸村の心配は三成がします。だから、問題ないでしょう」
結局清正は、身代わりにするように三成の名前を出した。あの戦の後、二人の距離が確実に近付いたことは、傍目で見ていれば分かることだ。ただ清正は、己の視線がどちらを追ってその事実に気付いたのか、までは分かっていない。とにかく三成は幸村のことを気遣いし過ぎる程に気にしているし、幸村も幸村であの三成とうまく関係が築けているようだ。
「清正は?」
「は?」
半兵衛が、その大きな双眸で清正の顔を覗き込む。性の悪いにんまりとした笑みを向けられて、清正の眉間に自然と皺が寄った。
「だーかーらー、清正はどうなのって。少しは気に入ってるから、こうして幸村に付き添ってくれたんじゃないの?前から思ってたけどさ、清正たちって懐に入れちゃったものに対しては甘いよねー」
「どういう、意味ですか」
「そのまんまだよ。お前も三成も、人の好き嫌いが激しいって話」
そういう話だろうか、と清正が首をひねる。話題がぽんぽんと飛ぶ半兵衛との会話は、時々物凄く脈絡がない。いつの間にやら会話の軸が変わっていることもしばしばで、それに慣れている官兵衛とは違い、清正は会話の初めを思い出しては首を傾げるしかない。
「幸村はさぁ、人に好かれる子だよ。でも、幸村はそういう自分の性質が好きじゃないみたいなんだよねぇ」
「……」
清正は、半兵衛のこちらの考えを見透かそうとする視線から、逃れるように顔を伏せた。想いとしては、半兵衛の言葉に同意したいが、彼の探るような目に捕まるのを避けた清正は、黙秘を選んだ。
幸村の纏う空気は柔らかく、人の棘をそいでしまう温かさがあったが、彼はあまり人と馴れ合わない。唯一の例外が三成かもしれないが、三成自身が他人との馴れ合いに不慣れなせいもあり、彼の設けている一定の隙間を埋められないでいるのが現状だ。今日だって、清正が同行すると言っても謙遜が目立った。そういう性質の男だ、と諦められる程、清正は幸村のことを知らない。気にはかけているが、結局自分たちは、まだ多少親しくなった他人でしかないのだ。
「だから、俺にどうしろと?それは幸村の問題です、俺らがどうこう言ったところで、」
「その言い方!三成にそっくりだねぇ」
半兵衛が楽しそうに手を叩く。こうやって話の腰を折ることを平気でやってのけるこの軍師の性質が、清正は非常に気に入らない。大体の人間は彼のこういった我儘に、清正や三成はもちろん、官兵衛ですら振り回されている。
「半兵衛様、今はそういうことを言っているのではなく、」
「何が言いたいのか分からないって?最近の若い子は結論を早まってばっかで、せっかちだなあ。人生ってのはさ、もっとどっしり構えて、七難八苦もどんとこーい!ぐらいの気概がなくちゃあ。つまんないって思わない?」
思いません、と突き放した調子で言えば、半兵衛は大袈裟にため息をついて、あーあ可愛くない、可愛くないところが可愛い幸村とは違って、清正も三成も、本ッ当に可愛くない、と失礼なことをのたまった。結局、子飼いの中では筆頭の位置にある清正をもってしても、半兵衛は難敵であることに変わりはなく、彼に勝とうなど百年経っても無理だろう。
「幸村はさ、強いよ。腕っ節もそうだったけど、心がね、ちゃんと芯がある。そういう人間はさ、折れないし曲がらないし譲らないし、まぁ頑固だ。ただねぇ、だから心配なんだ。というわけだからさ!清正には幸村を守ってほしいんだ」
「それは、」
命令ですか、あなたの大好きな気まぐれですか。
そう訊くことは出来なかった。半兵衛の表情に宿る僅かな真剣みに気付いたからだ。
「それこそ、三成に言えば良いじゃないですか。あれは喜んで、幸村を保護しますよ」
半兵衛は、いかに三成が幸村を気に入っているのか、知らないはずだ。けれども、清正の言に別段疑問を抱かなかったようだ。一体この軍師は、どこまで城での出来事を把握しているのだろうか。
「三成はねぇ、過保護に過ぎるよ。それじゃあ、幸村を大切にすることは出来ても、自由にしてあげることは出来ない。だから俺は、清正に頼んでるの」
「俺はそういったことに不慣れです。第一、俺が守るのは秀吉様の家です。多くを望めば、二兎を追う者一兎も得ず、じゃないですか」
「じゃあ家族にしちゃえばいい。簡単なことじゃん!それにさ、不慣れでもいいと思うよ、俺は。うまくやれ、って言ってるんじゃない。不慣れな者同士、試行錯誤しながらさ、一歩ずつ前に進んでけばいいんだから」
そう言って、あー疲れた、長話って体力使うわー、と一方的に会話を打ち切った。清正が言い募ろうとしたが、布団を被ってしまった半兵衛は一言も返事を寄越しはしなかった。
半兵衛が眠った振りをして、すぐに幸村は部屋に戻ってきた。もう用はなくなったようで、盛り上がった布団に幸村は退去の挨拶をしている。それでは、と幸村が一礼をして立ち上がった時、ようやく半兵衛が顔を出した。もちろん寝転がったままだが、一応被っていた布団は横に除けられている。清正は思わず眉を顰めたが、慣れているのか幸村は特に気にした様子もなかった。幸村が気にしないものだから、傍若無人っぷりが悪化したんじゃないか、とすら思ったが、そこは清正だ。思うだけに留めておいた。
「幸村、あんまり根詰め過ぎないようにねー。仕事なんて適当でいいんだよ、適当で。なんだったら官兵衛殿とか三成とか、仕事大好きな人に任せちゃえばいいから。たまには昼寝しに帰っておいで。清正も、幸村と一緒だったら喜んで歓迎してあげる」
「はぁ」
と、気のない返事をする幸村と、そりゃどうも、といかにも面白くなさげの清正の反応に満足したのか、それじゃあ俺は寝るから!と再び布団を被ってしまった。何なんだ、この軍師は、とやはりいつもの感想を抱いている清正を尻目に、そんな掴みどころのない半兵衛に慣れ切っている幸村は、では失礼します、と半兵衛には勿体ない丁寧な仕草で礼をして、ようやくその庵から去った。その布団の中で、半兵衛がいかにも楽しげな笑みを浮かべていたことなど、当然知るはずもなかった。