半兵衛の庵から城に戻った頃には、既に夕日が沈みかけていた。本来は表門を使用する清正だが、人だかりが出来ていたのを理由に、裏門をくぐった。騒ぎがあったというよりは、どこぞの国の大名でも来訪しているのだろう。裏手の番の者も大勢がそちらに借り出されているようで、最低限の者しか残されていなかった。清正は馬小屋に馬を繋ぎながら、顔馴染みの番人に表の様子を訊ねる。秀吉の城が賑やかなのはいつものことだが、常にない華やかさを感じたからだ。
「上杉様から、使者がいらしているようです。これが中々に大所帯でして、城の者も随分と面白がっておりまして」
「上杉なら、対応は三成だな?」
「はい、いつも以上に忙しそうに走り回っておられます」
そうか、と清正も相槌を打つ。内政の仕事が任せられることが多くなった三成だが、対上杉に限っては既に専門となっていた。豊臣の交渉相手が三成ならば、上杉が遣ったという使いはおそらく直江兼続だろう。
他にも、二言三言交わして別れる頃には、幸村の方も馬を預け終わったようだった。引っ掴むように幸村の手を取って、行くぞ、と促せば、幸村もそれに従った。
城内の一室に居を置いている幸村とは違い、清正や三成、正則には小さいながらも屋敷が下賜されている。この時間帯ならば、家人が夕餉の支度をしているだろう。途端空腹を感じるものだから、現金なものだ。清正は幸村の手を握りながら、
「なあ、家で夕飯食ってけよ。お前も腹減っただろ」
もちろん、否と言わせる気はない。握り締めた指の強さがその証であるし、敏い幸村ならば察しているだろう。けれども遠慮をしすぎるきらいのある幸村は、一度は首を振る。それに、いいから、と強気で迫れば、幸村も嫌だとは言わない。困ったような、それでも笑みを含ませた声で、
「お言葉に甘えさせていただきます」
と、清正の言葉に頷いた。強引な感は否めないが、それでも幸村からの了承をもぎ取った清正は、嬉しそうに少しだけ顔を緩めたのだった。
清正の家人は、そう多くはない。元々小さな屋敷であるから、そう多くは必要ないのだ。三成とは別の意味で気難しい清正は、あまり自分のことに干渉されるのを良しとしない。自分のことは自分でやらなければ気のすまない性質でもあるので、身の回りの世話を任せることは滅多にない。もちろん、炊事洗濯は頼り切っているが、自室の掃除程度は己でやってしまう。家人を信頼していないわけではなく、昔からの癖なのだ。そういった相手に仕えている家人たちは、清正との間合いをしっかりと把握していて、今日も二人分の膳を部屋に置いたきり、極々自然な動作で退室していった。対面に座る、目が見えないというのに、手探りで綺麗に膳を平らげて行く幸村を感心しながら眺めつつ、己も食事を口に運ぶ。車座になって身分も関係なくわいわいと食事することが多かった清正にとって、黙々と静かに、しかも丁寧に食事する幸村が新鮮だったのだ。所作の一つ一つが綺麗に躾けられている幸村だからこそ、食事をする時のぴんと伸びた姿勢や、箸使いすら整ってみえた。これは本当に、自分たちとは全く違う存在だ、と、思わずにはいられなかった。生粋のもののふの美しさは、こういったところにも表れているようだ。
時々ぽつぽつと言葉をこぼしながらも、心地の良い静寂を保っていた空間が、突如として慌しくなった。玄関の方が騒がしいのだ。大きな屋敷ではない、大声を発すれば(もちろん大声の度合いにもよるが)、たちまち屋敷中に響き渡ってしまう。今もそんなような状態だ。清正がまず箸を置いた。空気に敏感な幸村もまた、食事を止めている。正直言って、嫌な予感しかしない。玄関から奥まったこの部屋まで届く声量を持っているのは清正の知り合いでただ一人だし、更に言うなれば、その者の来訪は決して珍しいことではないものの、毎回毎回嵐が吹き荒れたような喧騒と疲労感が残るのだ。おそらくは、奴だろう。清正が大袈裟にため息をつく。幸村が心配そうに、どうかされましたか?と訊ねてきたが、清正は乾いた笑いを返すことしか出来なかった。
「幸村!」
声と共に勢い良く襖が開いて、二人の意識は否応なしにそちらへと向けられた。襖の開く小気味良い音に負けず劣らず良く通る声の持ち主である男は、どかどかと遠慮なく部屋に上がり込んだ。左腕には三成を半ば引き摺るように抱えている。その後ろには、いかにも楽しげに事の成り行きを眺めている正則も居る。おそらくこの良く声の通る男をここまで案内したのは彼で、玄関で喚いていたのも彼だろう。それも、面白そうなことになりそうだから、という理由だけで。そうだ、そうに違いない。
三成を荷物のように抱えている男にはもちろん見覚えがあったが、名前が出てこない。そんな清正の代わりに、
「兼続どの?」
と、名を呼んだ。ああそうだ、彼は上杉家の名物宰相にして三成の親友を自称している、直江兼続だ。やはり上杉からの使者とは彼のことだったようだ。
清正が事の成り行きを見守っていると(決して、面倒だとか、巻き込まれたくないだとか、そういった理由ではない。正直、ここが清正の屋敷だということを声高に叫びたい気分だったが、直江兼続の勢いを知っている分、口を閉ざすことが最良だろう)、兼続はやはり良く通る爽やかな声を張り上げて幸村の名を呼び、腕の荷物、もとい、親友である三成を放り投げて、幸村の前に駆け寄るや、座っている幸村に膝をついて目線を合わせ、がばりと幸村に抱き付いた。なんとはなく、その光景が面白くなくて目をそらせば、兼続に無理な体勢で抱えらなんとか立っていただけだった三成の尻餅姿と目が合った。やはり気に食わなくて、互いに顔を顰めているところに、面白がってついてきたのであろう正則が、
「なぁ、」
と、視線を寄越した。
「あいつらって、顔見知りなわけ?何でだ?」
正則はそう言って首を傾げるが、もちろん清正が知っているわけがない。仕方なく三成を見やったが、口を曲げたまま、
「知らん」
と、短く吐き捨てただけだった。そんな三人が見守る中、渦中の兼続と幸村と言えば、抱擁を終え、兼続の両手が幸村の顔を包んでいた。二人の声はよく通る声質をしていたし、また、他の三人は会話を止めてしまったせいで、二人の会話は三人にも届いていた。
「この怪我は長篠か?」
「はい」
「もう見えぬのか?」
「…はい。父も匙を投げました。最早治らぬものと心得ております」
「そうか」
兼続はそう頷いて一旦は言葉を止め、親指の腹で幸村の目蓋を包帯の上からさするように撫でる。
「傷を見せてはくれぬか?」
「見っとものうございます。その儀はご勘弁を。これは己の戒めでもありますれば」
「そのような傷があろうがなかろうが、お前の高潔な志は変わらぬよ。なに、お前の槍さばきが最早見ることが叶わぬのは悲しいが、こうして再び生きてまみえたことは何ものにも代えがたい喜びだ。幸村、またこうしてお前の声を聞くことができて、私は嬉しい」
「兼続どの、わたしも、わたしもです」
今度は幸村が、控えめに手の平で兼続の頬を包む。
「少し、痩せられましたね」
「うん?まあ、仕方のないことだ」
「あまりご無理なさらぬように。ご自愛ください」
「うん」
幸村の手がゆっくりと、兼続の顔から離れて行く。兼続はそれを見計らって、幸村の手をぎゅうと握り締めた。
「…景勝さまは?」
「息災だぞ。お前に会ったと必ず伝えよう。自分を仲間外れにするなと、拗ねてしまうかもしれないがな。そうだ!お前も文を、…いや、何でもない」
「文ならば書けますよ。届けて頂けますか?」
そう言って、ふふっと笑い声を漏らした。兼続は殊更明るい声で、
「ああ!もちろんだとも!」
と、繋がっている幸村の手を大きく振っている。幸村は顔を伏せて、少しだけ声の調子を下げ、
「景虎さまは、」
と、その名を紡いだ。三成・清正の間に、にわかに緊張が走った。上杉景勝と兼続は、謙信の跡目争いで彼を自害に追い込んでいる。兼続にしても、あまり気分の良い話題でもないだろう。しかし幸村は、そんな二人の思いをよそに、ひどく悲しげな声で、
「惜しいお方を亡くされました」
とだけ呟いた。ただただ、彼の人の死を悼んでいるようだった。兼続も、握り締めていた手を労わるように撫で、柔らかい声音を発した。そこには、景虎に対する憎しみもなければ、彼の人の名前を出した幸村に対する理不尽な怒りもなかった。彼の人を悼む幸村を喜んでいる節すらあった。
「そうだな。あれは私たちが拙かったからだ」
「お辛い選択をなさいました」
少し辛気臭くなってしまった場の空気が我慢できなかったのだろう。清正が声を発するよりも先に、正則が例の大音声を発した。
「つぅかよぅ!二人ってどういう関係なわけ?なんで知り合いなわけ?」
二人の間に割り込むように身体を滑り込ませれば、驚いた拍子で繋がっていた二人の手が離れた。知り合いと一言で済ませてしまうには、どうにも距離が近すぎるような気がする。人とは距離を置きたがる幸村だが、兼続に対してはその距離を感じさせない。言葉だけではなく、声の調子からも互いの心を感じ合っているような親密さがあった。
「私が謙信公に仕えていたように、幸村も信玄公に重用されていましてな、その縁です」
調子を取り繕いながら、まずは兼続がそう言った。本来ならば、正則の無遠慮さをたしなめるべきだが、清正も三成も、黙って三人のやり取りを聞いていた。正則の馴れ馴れしさは、こういった場では役に立つのだ。清正も三成も、相手に根掘り葉掘り質問をするには、どうにも口下手過ぎた。
「でもよぅ、上杉と武田っつったら、戦ばっかしてたじゃねぇか。仲が悪いってんなら分かるけどよぅ、そうじゃねぇよなあ?」
「初めてお会いしたのは戦場です。何度も何度も、敵として刃を交えました。直接の交戦はありませんでしたが」
「幸村と戦っていたら、きっと私は生きていませんよ。幸村の槍は苛烈で隙がない。上杉にとっては、とても脅威でした」
「兼続どのだって。その鬼謀に我々武田は多くの犠牲を払いましたよ」
「使者として訪れたこともあったかな。あれは何度目の和議だったか。私はもとより、御前や景勝様、景虎様にも随分と気に入られて」
「ありがたいことですが、あれは少々大変でしたよ。用件を済ませたらすぐ帰還するつもりが、五日も滞在してしまいました」
和やかに話をしているが、その前提は敵同士で戦ったということだ。そこにどうして、友情が芽生えるのか。ここまで距離が近くなるのか。分からなかったが、それを訊ねることがどうしても出来なくて、その感情を隠そうと自然顔の筋肉に力がこもる。顰めっ面が多いのは、こういった理由だ。三成も清正の状態とそう大差はなく、彼の場合は眉間の皺が深くなるのだ。質問を繰り返している正則もそれは同じだったようで、最初は理解しようと頑張っていたようだが、終いには、
「だぁー!意味分かんねぇ!けどよ!敵ながら認め合った仲ってのはなんかカッケェなあ!」
と、彼なりの美学を持ち出した。残念ながら、それは"彼なりの"なわけであって、付き合いの長い清正ですら、その美学の法則はよく分からないのだ。
「よき士はよきもののふを知る、ということです」
わいわいと(主に正則が)騒いでいたら、あっと言う間に外は真っ暗になっていた。そろそろ解散しようか、という空気が場に流れたところで、
「泊まっていけよ」
という発言が出た。残念ながら、言い出したのは清正ではない、正則だ。
「ここはお前の屋敷じゃない、馬鹿」
とは言ってみたものの、正則に効果などあるはずもない。酒を呑みにだの、愚痴を喋りにだのでよく来訪している正則は清正の家人とも親しい。清正の屋敷は、正則だけではなく、親しくしている者がよく集まることもあり、家人も大人数が寝泊りすることに慣れていた。本心を言ってしまえば嫌ではないのだが、正則の言にやすやすと従ってしまうことに少しばかり抵抗を覚えたからだ。
他の三人は正則のように慣れているわけでもないから、口々に、
「俺は帰るぞ」
「他の三人はともかく、私は迷惑にしかなりませんな」
「これ以上お世話になるわけには」
と、言葉を濁したが(約一名は違うが)、正則がまた余計な一言を発した。
「だってさっき厠に行った時、五人分の布団も用意してもらうように頼んじまったぜ」
正則が席を外したのは、確か四半刻ほど前だったろうか。優秀な家人たちは、親しい正則の言葉に特に疑問を抱くこともなく、今頃は準備も済んで、いつでもどうぞ状態に違いない。いつもは要領が悪く、何事も後手後手に回ることが多いくせに、こういったことに関してだけは根回しが良い。家人の労力を無駄にするのも悪いと思った清正は、諦めのため息をついて、
「そういうことだから、泊まって行け」
と、言うほかないのだった。