巨大な城門が開かれ、続々と具足に身を包んだ男達が士気高く列を成して行進して行く。磨き抜かれた鎧に陽射しが反射して、きらきらと輝いていた。その様を一目見んと、領民達の人だかりが出来ている。総勢二万もの軍勢が出陣した、初夏のことだった。
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羽柴本隊が本陣に到着したのは、出陣から半月後のことだった。遅れること三日、徳川軍も着陣した。先発隊が夜通し土木作業を行ったおかげで、両軍の本陣の間には高い土塁が築かれている。攻めかかるには、人の背丈の倍はある土塁をよじ登るか、迂回をするしかない。睨み合ったまま、こう着状態が続いた。
幸村は奥まった陣所を居としていた。軍師として重んじられているようで、突然の奇襲の手も届かない、防御面でも優れた場所だった。最初から幸村用に作られたようで、こじんまりとした広さだ。元々持ち物は少ないが戦場となれば尚更で、そこには出陣の際に着用していた胴鎧が飾られているだけだ。幸村が前線で戦う可能性は零に等しく、下に鎖帷子を着込んではいるものの軽装で、陣羽織を羽織っていることが、かろうじて戦場の装いに見えた。
「赤備えじゃない幸村さまって、なーんか変なカンジ」
地に足を置いた音すら立てず、くのいちは幸村の背後から、置かれている胴鎧を覗き込んだ。突然ふってわいた気配にも幸村は驚きの声一つ上げることはなく、
「折角用意してくださったのだ。文句を言うものではない」
と、敏感にくのいちの声に含まれている不満を指摘した。くのいちは頬を膨らませながら、磨きぬかれた、傷一つない鎧を眺める。これを幸村が着用しているのだと思うと、違和感しか浮かんでこなかったからだ。黒で統一され、止め具や紐の部分は白が使用されている鎧は、羽柴家が用意しただけあって上等品だが、派手好みの秀吉の趣味とは思えない程に地味だった。残念ながら、どこにも家紋は描かれておらず、それがいっそう平凡さを際立たせている。地味なのだ、質素なのだ。常に鮮やかな赤を纏い、戦場を席巻していた主を知っているくのいちは、苛立ちや不満ももちろん抱いてはいるのだけれど、それ以上に違和感を覚える。しっくりこないのだ。この人に、的にも目印にもなりやしないこんな平凡な色を着せて、あまりにもひどいではないか。むごい、とくのいちは思った。そう口に出したわけではなかったが、幸村は正確にくのいちの内心を見通していただろう。昔から、幸村はくのいちの感情を、呼吸をするように読み取ってしまうのだ。
「こうして戦の装いが出来ただけでも、本当に有り難いことなのだ。お前だって、今のわたしの惨状を知っているだろうに」
幸村の調子は至っていつも通りの穏やかなものだったが、声に僅かな苛立ちが滲んでいた。幸村が今の盲いた己の状態を皮肉ることは、滅多にない。軽口に乗せることはもちろんあるが、少しの憤りを持ったまま、他人にそれをぶつけることはしない。きっと他人の目には、幸村は己の状態にすら無関心の能天気に映っているのだろう。けれどもくのいちは、この主が己の無力さに憤りを感じていることを知っている。もどかしさを、虚しさを。ともすれば、叫び喚いて、思い切り走り出してしまいたい衝動を、彼も抱いていることを知っている。つい数年前までは、戦の最前線で戦っていたのだ。体力が衰えたわけではない、腕が足が動かなくなってしまったわけでもない。ただ目でものを見ることが出来なくなってしまっただけなのだと、言ってやりたかった。
くのいちは胸に広がる無念さを噛み殺して、とびきり明るい調子を作った。そんなもの、幸村の前では全くの無意味であることも知っているけれども。
「まあ、そうですけど。でもでもぉ、どうせ用意してくれるなら、赤備えでもいいじゃないですか?やっぱり幸村さまには、赤が似合いますよぅ」
幸村の肩を飛び越えて、傷一つない、血糊の痕一つない鎧を、つぅと指で撫でた。滑らかな手触りに、くのいちは眉を顰める。
幸村はくのいちの言葉に曖昧に笑うばかりだった。あるいは、もう見ることの叶わない己の姿などどうでもいいのかもしれない。くのいちはわざと音を立てて幸村の隣りにひょいと飛んで、幸村の肘を掴んだ。幸村はやはり驚いた様子すら見せず、
「そろそろ陣を見て回ろう。案内を頼む」
と、言った。くのいちの行動を読んでいたのだろう。もしくは、くのいちが幸村の行動を察していたのか。どちらも大差ないな、とくのいちは心の中で独白して、幸村の肘を軽く引いた。未練がましくちらりと後ろを振り返れば、お綺麗な鎧がこちらをじっと見つめていた。くのいちが撫でた場所には、指の膏がべたりと付着していたのだった。