「では、しばらくは睨み合いを続けます。今まで通り土塁付近に見張りをつけ、異変ありと見受けられた場合は、即座に報告させます。異常のない場合も、一刻ごとに。兵糧は次々に運ばせていますので、向こう三ヶ月分は余裕をもって対応出来ます」
「うむ、それでええ。細かいことはおみゃーさんに任せるわ」
はい、と幸村は平伏した。くのいちは陣の入り口で待たせており、この幕内には上座に足を崩している秀吉と、下座で丁寧に頭を垂れている幸村しかいない。
「一つ、伺いたき儀がございます」
「言うだけ、言うてみぃ」
「黒田官兵衛様の所在でございます。官兵衛様は、秀吉様の命を受けて任務遂行中とのことですが、」
「極秘任務中じゃ、居場所は教えられん」
子飼いの者たちが聞いたら眉を寄せただろう。秀吉の声は冷たかった。相手の力量を推し量ろうと突き放しているのではない。秀吉の声からは、少なくとも温かみを感じられなかった。
「承知しました。ご無理を言い、申し訳ありません」
「構わん。おみゃーさんには期待しとるでな。うまいことやってくれ」
下がってええで、と秀吉が退室を促す。幸村はゆっくりと顔を上げて秀吉を一瞥し、失礼します、ともう一度深く頭を下げて、その場を後にした。幸村の後ろ姿を、秀吉が苦々しい複雑な表情で見送っていたとは、幸村はおろか、秀吉自身でさえも、気付いていないのだった。
羽柴軍が着陣してから、一ヶ月が経とうとしていた。斥候同士の小さなぶつかり合いはあったものの、戦と呼べるような大きな衝突もなく、一ヶ月もの間、睨み合いが続いている。兵達の間には、長陣の緩みというものがちらほら見られるようになり、出陣した際のぴりぴりとした緊張感はどこかへと行ってしまっていた。今攻め込まれたらひとたまりもないが、同じような雰囲気は向こうも同じだろう。仕掛ける様子がなく、攻め寄せてくる様子もない。互いの出方を伺い続けて、こう着状態が続いていた。
幸村は今日もくのいちを案内に、兵達の陣所を回っていた。一月の間、一日も欠かさず行ってきたおかげで、兵達も幸村の姿に慣れてきたようだ。また、出来るだけ兵にねぎらいの言葉をかけていく幸村だ。兵達の中で、幸村の評価は段々と高くなっていった。特に、ここ最近の軍師はもっぱら黒田官兵衛が務めていたこともあり、幸村の対応はまるっきり官兵衛と真逆だったのも要因の一つだろう。彼は彼で兵思いの厳しい軍師なのだが、戦の勝利を優先に考える余り、一兵卒をただの駒だとしか見ていないように誤解されるところがある。彼の見回り方といえば、軍規が乱れていないか、統率が取れているかの確認ばかりで、兵に声をかけることはしなかったし、一人一人へ注目することはない。反面幸村は、声をかけ名前を聞き生まれ育った地を訊ねる。それだけで、随分と印象が変わるものだ。幸村にとって自分達はただの駒ではないのだ、と思うようになる。次第に兵達も幸村に打ち解け、中には、今日軍師様とこのような会話をした、と盛り上がっている一帯すら出来る始末だ。その様子を、日々隣りにいるくのいちが気付かぬはずもなく、相変わらず人をたらし込むことがうまい幸村を、称えたものか、呆れたものか、と思うくのいちだ。人身掌握術に優れていることは間違いがないのだけれど、無意識にやってしまうから性質が悪いのだと、くのいちは思う。
陣の中でも一際規模が大きいのが、福島正則が率いる兵達の陣所だ。福島隊は子飼いの中でも一番の大所帯だ。彼には騎馬も多く支給されており、戦となれば先陣を切って敵陣へと突き進む役割を持っている。幸村はその陣の中へと足を踏み入れ、正則の居場所を近くの兵に訊ねた。五日とおかず顔を合わせる仲となった今、その辺りも慣れたもので、今の時間でしたら、兵に稽古をつけています、とくのいちに細かな位置を教えてくれた。幸村が丁寧に礼を言って相手が狼狽する、というのは最早一連の流れとなっている。呼んできてくれ、と言うのではなく、こちらから赴くという謙虚な姿勢が彼らには好印象なのだ。
教えられた場所に、確かに正則はいた。ただ、稽古をつけている、という様子には見えなかった。兵数人を相手に殴る蹴るの喧嘩をして遊んでいるようにしか見えなかったのだ。残りの兵達によって、見世物のように人垣が出来ている。福島隊は体格の良いものが集まっているが、正則以上の長身はいない。正則に力いっぱい殴られて、思い切り吹っ飛ばされている者が何人もいた。うはー、いかにもな男所帯のお手本、とくのいちがつい言葉をこぼせば、幸村が苦笑した。説明しなくとも、気配や音で大体のことを察しているようだ。二人が訪れた時は既に佳境も過ぎていたようで、倒れ伏した兵たちの中、唯一立っていた正則が勝利の声を上げて、人の輪は散り散りとなった。見張りの仕事があるならいざ知らず、戦が始まらない限り、兵達は暇を持て余しているのだ。正則の拳の犠牲になった者たちに、彼自身がだいじょうぶかぁ〜と声をかけている最中、ようやく幸村の存在に気付いたようだ。砂埃で汚れてしまった顔を手の甲で拭いつつ、おっ幸村どうしたんだっ、と嬉しそうに駆け寄ってきた。元気有り余ってますねぇ、とくのいちがまたしてもぼそりと呟いた。
「少し正則どのに話がありまして。面白い兵の調練方法を思いつきましたので、是非とも取り入れていただきたいとお願いにあがりました」
調練方法、と聞いて興味が湧いたらしい正則は、それで?と続きを促す。新しいおもちゃを前にはしゃいでいる子どものような目に、くのいちは噴き出すのを我慢しなければならなかった。
「正則どのの隊には、多くの騎馬がいますから、この騎馬と操り手の鍛錬なのですが。馬の口と蹄を布で縛り、いかに音を立てずに進軍できるか、という訓練です。確かに退屈かもしれませんが、会得すれば色々とお得ですよ。敵に気付かれることもなく、目と鼻の先の距離まで進軍出来れば、勝利はぐっと近くなります。なにより、相手をびっくりさせることが出来て、面白いでしょう?」
まるで子どもの悪戯をそそのかすような、そんな調子で幸村は言った。確かに、正則相手であったのなら、その有利さを説くよりも、面白い楽しいと告げた方が効果はある。その思惑が大当たりしたようで、つまらない、と一度は顔を顰めた正則が、最後の一言で面白そう!と、手を叩いていた。単純な馬鹿でよかったなぁ、とくのいちは思う。これが三成なり清正なりだったら、こうも簡単に納得してもらえなかっただろう。
「それで?俺は何をしたらいいんだ?」
「まずは大量の布地が必要ですね。それをまずは馬の蹄に括りつけ、歩く練習です。布を巻きつけるだけで、足音はぐんと小さくなります。ただ、蹄に違和感があるので、最初は暴れたり、布を外そうとむずがりますが、それを慣れさせてください。普段通り歩けるようになったら、次は駆ける練習です。それも出来るようになったら、今度は馬の口に布を巻きつけて、呼吸の音が漏れないようにしてください。こちらの訓練が少し厄介で、息苦しくなってしまうので、馬はとても激しく抵抗します。それを宥めすかしてください。それが出来るようになったら、この訓練は完了です」
途中から理解が追いつかなくなったのか、一通り説明し終えた幸村に、で、なんだっけ?と正則が訊ねる。幸村は苦笑して、まずは、大量の布地の調達です、と丁寧に指摘した。力自慢の集まりである福島隊だが、世話役というものはどの隊にもいるもので、その者に話を通せば、あっと言う間に布地が集まった。次は?と無邪気に問う正則に、次は馬の蹄に布を括りつけてください、とこれまた丁寧に指示を出す。けれども、これが中々に一苦労で、三人四人がかりではないと、一頭にその措置を施すことが出来なかった。更に、縛りが甘いと折角苦労して取り付けた布が外れてしまい、何度も同じ作業を繰り返す羽目になった。先は長そうだが、長陣で退屈していた兵達は根気良く訓練を続けた。この日は馬を歩かせることも出来ずに、馬を押さえつけては蹄に布地をつけ、暴れられて外れて、またつける、という作業の繰り返しとなった。幸村は日が暮れて訓練が終了となるまで、その作業を見守っていた。流石に明日来ることは出来ないが、三日後にまた顔を出す、と約束をして、その場を後にした。幸村が来るまでに、馬に乗って走ってやるぞ!と決意を固めた正則に、その場のノリでおぉーと拳を天に突き上げてしまった福島隊には、次の日から厳しい訓練が待っているのだった。