この地に着陣してからこちら、清正はとにかく間が悪かった。行きの道では幸村は三成の陣に同伴していて顔を合わせていないし、着陣したらしたで、幸村は己の陣所にじっとしていなかったので、会いに行っても不在だった。兵の一人一人に声をかけて励ましている、と軍内に流れる噂で知り、仕事熱心な彼らしい、と思ったものの、それならば自分と全く遭遇しないのはおかしい、と近習の一人に愚痴をこぼせば、どうやら清正が所用で席を外している時に限って彼はやってくるらしい。此度の軍師様は、皆を気遣ってくださいます、有り難いことです、とおそらくは言葉を交わしたのだろう副将が嬉しげに話すものだから、清正は八つ当たりに彼の頭を軽くぽかりと殴りつけた。
そういうわけで、清正はこの戦の最中、一度として幸村と会っていない。特別な用事があるわけではないのだが、彼にとっては久しぶりの戦場だろうし、羽柴軍に所属しての初めての戦だ。それに加えて、あの障害だ。不便な思いをしていないだろうか、気を遣い過ぎる彼のこと、欲しいものがあってもそうは言えぬのではないか、とついつい思ってしまう。手がかかるのは面倒だが、手がかからぬというのも寂しいのだ。正則に指摘され、清正もそう認めた。認めざるを得ない、というのが現状だ。
見張りの役があるので、暇で仕方がない、というわけではないが、手隙になることがあるのも確かだ。清正はふらりと正則の所へ顔を出した。あれはじっとしていられる性質ではないので、長いこと出陣の命がないのをもどかしく感じているのではないか、とつい気になったからだ。熱を持て余すぐらいなら、手合わせなり合同訓練なりの提案をしようと思ったのだが、清正の思惑は見事に裏切られた。まず、陣に足を踏み入れた時の活気が違う。一ヶ月の長陣のおかげで、どの兵もどこかだらけており、空気にも張りがない。それが、正則の隊にはない。入り口にまで聞こえる指示を飛ばす声に、一体何をしているのだ、と清正はその中に足を踏み入れた。
訓練をしている最中であることは間違いがないのだが、そこはまさに阿鼻叫喚だった。馬を寝かせて必死になって蹄に布を括りつけている。馬はもちろん暴れるし、あっちを押さえろこっちを押さえろあああっちの布が外れたぞと、兵達も必死だ。目の前の惨状に、思わず立ち去ろうとしてしまった清正を見つけたのは正則だ。馬のいななき、兵達の叫び声の中でも負けることはなく、大きく響く正則の大音声が清正の名を呼ぶ。仕方なく清正は振り返って、何やってんだ、と訊ねるしかなかった。
「あ?この前さぁ、幸村がやってきて、面白い調練方法思いついたからやってみてくれーって言ってよぅ。何でも会得すりゃあ、面白いことになるってんで、今はその真っ最中ってわけ」
「頼むから、分かるように説明してくれ」
「いや、俺もよく分かってねぇんだけど。ほら、何頭かは、蹄に布があっても慣れてきたんだぜ。次の段階に進むのももうすぐだと思わねぇ?」
正則は当然のことのように同意を求めてきたが、まずこの訓練の意味が分からない清正は、いや意味が分からん、と一刀両断して、その場を後にした。忙しそうな正則に、別に敗北感を覚えたわけではない、と思いたい。とりあえず、自分の兵にも、明日からはちゃんと鍛錬をさせよう、と決意した清正だった。
自陣へと帰る頃には、既に日が傾いていた。食事の用意をしているようで、そこここから飯を炊いた良いにおいが漂っている。土塁の向こうから伸びる細長い煙は、徳川軍の炊飯のものだろう。いつまでこの睨み合いを続ければいいのだろう。ここ数日、ずっと考えていることに今日も思い至って、清正は思いきって幸村の陣へと赴くことを決めた。昼間ならいざ知らず、そろそろ夕餉の頃合だ。幸村も自分の陣所に戻っていることだろう。清正は己の陣の前を通り過ぎて、その足で幸村の所に向かった。
幸村の陣所は、特に奥まった場所にある。その代わりこじんまりとしており、人はほとんどいない。三成がつけたという小姓が控えてはいるものの、幸村の世話は女忍びが全てこなしてしまうらしい。そのくせ、二人の間に恋仲だの情人だのと噂が流れないのは、つけられている小姓たちが、くのいちの出入りをしっかりと目撃しているからだ。夜の早い時間にくのいちは幸村の寝所から出て行き、朝の支度の頃にちゃんと入り口から入っていく。幸村は夜を一人で過ごし、くのいちとの関係を疑わせる一切を作らないのだ。
入り口の小姓に幸村のことを訊ねれば、既に食事を済ませているので、そろそろくのいちも出てくる頃だと言う。寝入ってしまっては申し訳がない、眠りに就く前に話をしてしまおう、と小姓に窺いを立てれば、小姓たちも来客があればそのまま通してくれ、と言われているようで、清正を引き止めなかった。案内を、と声をかけてきた小姓もいたが、迷うような距離でもない。その好意を断って、清正は幸村の寝所の前に立った。
寝所とは言うものの、簡易なものだ。もちろん一般の兵や清正達よりは上等なものだが、それでも下は薄い板が敷き詰められているだけだ。野ざらしではないものの戸はなく、四方を分厚い幕で覆われているだけだ。寝所の中には、確かに幸村の気配があった。
「幸村、俺だ。入るぞ」
地の厚い幕を掻き分けると、目の前に入ってきたのは、幸村の姿だった。正確には、幸村の諸肌だ。背は、こちらに向けられているが。
中は既に明かりが灯されており、幸村の肌を橙色に染めていた。きっちりと着物を着こなす幸村にとって、陽を浴びない部分にあたるせいで、その肌の色は白く、傷一つなかった。ここ数年は槍を手にもしていないだろうが、元々、槍を振るっていたというだけあって、三成よりも余程立派な体躯だった。細い、というよりは、引き締まっている、と言った方が正しいだろう。筋肉の流れが美しい。まさに、若武者の身体の張りそのもので、清正のような重量はないが、柔軟性があり、まるで野性の鹿の細く引き締まった脚を連想させた。思いがけぬものに、言葉を失いじっと見つめていると、幸村がひょいと振り返った。
「すみません、お見苦しいところを。丁度身体を拭いていたところでして。もう終わりましたので、少しお待ちください」
そう言って、払っていた着物を羽織った。隠れてしまった彼の肌に、残念だ、と思ってしまったことに戸惑って、清正は更に言葉を噤む。彼が顔をひねったことで見えてしまった、横腹や胸の辺りには清正にも覚えのある傷がついていた。刀傷、打撲に、鉄砲のかすった痕。おそらく、戦場で負ったものだろう。本当に、彼はその手に槍を持って、戦場を駆けていたのだ。動かぬ証拠を突きつけられたような気がして、清正はいっそうかけるべき言葉を見失った。美しい背中だった。彼がどのように槍を振るうのか、しなやかな筋肉はどうその槍を活かすのか。想像して、ぞくりを背筋に歓喜が走った。それは、どれほど美しい光景だろうか!
「清正どの、どうかなさいましたか?」
幸村に呼びかけられ、清正ははっと思考から意識を上げた。幸村はいつも通りに、一縷の隙さえ見せず、見事に着物を着こなしていた。初夏から本番の夏に変わりつつあるこの頃は特に蒸し暑く、だらしなく着崩す者も多いのだが、幸村はやはり涼しげな様子でぴんと背筋を伸ばして、清正の前に座っていた。
「いや、少し話しがしたくてな。顔を合わせる機会がなかっただろう」
「もしかして、清正どのに避けられているのでは、と思った程です」
「それは、」
こちらの台詞だ、と言おうと思ったが、幸村がくすくすと笑うものだから、その先を心の中に閉じ込めた。杞憂であったことなど、幸村の様子を見れば分かることだ。
「すまなかったな。勝手に入って」
「いえ、構いませんよ。ただ、あまり見て楽しいものではありませんが」
「いや、」
と、言えば、幸村がこちらを覗き込む。男の裸を見て楽しむような性癖はないが、幸村のそれは違う。ぴんと張った筋肉が綺麗だと思った。ああ彼は本当にもののふだったのだと思った。彼の槍の鋭さを勝手に想像して喜んで、けれども、最早その姿を見ることは叶わないことを次には思い出し、悲しいようなもどかしいような、物寂しい気分になった。
「傷一つない、きれいな背中だな」
清正は、己の思考とは別のことを口に出した。確かに、きれいだった。清正の身体は、背中を含めて、様々な傷跡が残っている。けれども幸村は、背中だけには傷がなかった。本当に、背中に目がついているのかもしれない。
「背中は、わたしの忍びが守ってくれましたから。あれは本当に忠義者で、あれがいたからこそ、わたしは槍を振るうことが出来ました。……過去の話ではありますが」
幸村はつ、と包帯で覆われている瞼を撫でた。その目は本当に見えないのか、と清正は彼の包帯を剥ぎ取ってしまいたかった。彼のその包帯の下を見た者は誰もいない。清正も、三成にすら、その傷を見せてはくれない。
「あれには本当に、我慢ばかりさせています」
まるで慈しむように、清正たちに向ける声音とは違った、あたたかな声だった。清正は、その先の言葉が見つからない。幸村にどんな言葉をかけたらいいのか分からなかった。けれど、どこかしんみりとした空気を壊したのは、それを作り出した幸村だった。すっと顔を上げて、清正を見つめる。確かに彼の眼は包帯で覆われているけれど、その視線の先には清正の眼がある。
「それで、何かご用件があったのでは?」
あくまで穏やかに、幸村は訊ねる。新しく提供された話題に、これ幸いと飛びついた。
「あ、ああ。いつまでこの睨み合いが続くんだろうか、と思って、な。既に兵達の空気は緩んでやがる。出来れば、早くに出陣させてもらいたい。どうして攻めかからない?数はこちらの方が上だろう?地の利もある、躊躇う要素はないように思えるんだが」
幸村は立ち上がって、数歩先にある幸村の鎧をスッと撫でた。相変わらず、足どりに迷いがない。明かりは点いているものの、部屋の隅々までを照らし出してはくれない。そこに鎧があることに、清正は今初めて気付いた程だ。黒を基調として作られているせいで、夜の帳の中では埋れてしまう。かろうじて、止め具の白い紐が浮かび上がって見えている程度だ。
「頃合を、待っているんです」
幸村はこちらに背を向けている。白い幸村の指が、鎧の上を辿る。丁度、心ノ臓辺りだろうか、幸村は人差し指の爪で、とんとんと軽くそこを叩いた。
「もう少し堪えて下さい。頃合が来ましたら、ちゃんと出陣していただきます。ご活躍を期待していますよ。ですから、それまでは兵を鍛えて、英気を養ってください」
そう言い切られてしまっては、それ以上の追求も出来ず、清正は、わかった、と短く頷くことしか出来ない。帰ろうかどうしようかと躊躇っていたら、今まで席を外していたくのいちが、唐突に顔を出した。気配は何もなかった。彼女の手には湯気を出している桶と手拭い、包帯が握られていた。
「おや、お客さんですか?あたし、幸村様の包帯替えて差し上げたいんですがねぇ。早く終わらせて、さっさとお暇したいんですがねぇ」
だから、あんたはさっさと帰ってくださいよ、と暗に匂わせて、くのいちは幸村の近くに腰を下ろした。幸村は、こらっ無礼な口を利くな、と窘めていたが、くのいちも慣れているようで、はいはーい、と可愛げのない返事をしていた。このままここに居座るのは、幸村が嫌がるだろう。けれども、その包帯の下を見てみたい、という気持ちももちろんある。清正は窺うように幸村を見る。視線に気付いたのか、幸村はこちらに顔を向けて、
「申し訳ありません。今宵は、」
と、いかにもすまなさそうな声を出した。そう言われてしまえば、逆らうことも出来ない。清正は急かされるようにして、その場から立ち去ったのだった。