戦が動いたのは、睨み合いが三ヶ月に突入しようとしていた、まさにその日だった。七日前には上杉からの援軍が到着していた。援軍は形式的なもので、数は三千と少なかったが、現当主の景勝の右腕と評判の直江兼続が率いていることの意味は大きかった。
二日前には、雨が降った。一日降り続いた雨は地面を大いに濡らし、水溜りをそこかしこに作っていた。水はけが悪い土地らしく、一日経った今もまだ地面はぬかるんでいる。
幸村は主だった将に召集をかけ、軍議を開いた。出陣の号令が発せられるまで、あと僅かだ。
「隊を二つに分けます。一方はこちらに残り、今まで通り徳川の監視を続けてください。もう一方は、中入りを決行します。密かに本陣を出、土塁を迂回。徳川本陣の脇を抜け、本拠地・岡崎城を攻めます。迅速に、決して敵に見つからぬように進軍してください。岡崎城を攻め立てていると知らせを受ければ、徳川は必ず退却しましょう。そこを、叩きます」
台に広げられた地図の上を、幸村の言葉に沿ってくのいちが駒を動かす。集められた諸将達は、重なり合うようにして覗き込んでいる。清正や三成を筆頭とした若年層と、秀吉が若いうちから支えている古株達だ。割合もおおよそ半々に分かれており、立っている位置もそうと指示したわけではないが、その括りでかたまっている。直江兼続も同席しており、三成の隣りを陣取っていた。秀吉だけが、一人離れた場所で床几に腰掛け、皆の様子を眺めている。
幸村の声ははきはきとしており、聞き取りやすい。皆が自然と耳を傾けていた。一通りの作戦を説明し終えるとくのいちは下がり、幸村の影に控える。幸村はまるでこの場の全員を見回すように、首を左右に揺らした。
「編成を発表します。福島正則隊、石田三成隊、加藤清正隊、それと、上杉軍もご助力頂けますか。大将は加藤清正どの、お願いします」
幸村は名を順番に呼びながら、一人一人に顔を向けた。本当に、見えているかのようだった。まさか名前を呼ばれるとは思っていなかった三人は思わず顔を見合わせたが、大将に任命された清正が代表で、
「了解した」
と、強く頷けば、周りから歓声が上がった。ここに揃っている面々は気心知れた仲でもあるので、単純に次の世代の台頭が嬉しいのだ。特にこの三人には秀吉の期待も大きい。秀吉様の為にも頑張れよ、とそこかしこから激励が飛んだ。そんな雰囲気の良い中、幸村はもう一言を告げる。
「わたしも共に参ります」
一瞬しんと静まり返ったものの、すぐに場は喧騒に包まれた。面々が思い思いを叫んでいる。反対だ、危険だ、足手まといだ、というのが大半で、先程名を呼ばれた三人も同じ思いのようで、苦虫を噛み潰してしまったような、険しい顔をしている。幸村はあえてそれらを止めることはせず、皆の言いたいようにさせている。反対意見が出ることなど分かりきっていたのだろう、表情は涼しいもので、言葉の洪水がおさまるのを待っているようだった。
「幸村」
発せられた声に、皆の言葉が一斉に止んだ。今まで沈黙を守っていた秀吉が、腰を上げたからだ。
「わしゃぁ、おみゃーさんに任せた。口出しはせん。じゃが、一応は訊いとくで。それで、"問題ないんじゃな?"」
秀吉の眼が、幸村を射抜く。優しく労わるように、ではない。まるで政敵に挑むような、どこか相手の出方を窺った表情だった。二人の間に流れている空気は、あまり穏健なものではなかった。見兼ねた清正が口を挟もうとしたものの、いつの間にか移動していたくのいちが清正の袖を引いて、意識をそらしてしまった。清正が再び声をかけようと口を開きかけたが、それよりも先に幸村が声を発した。清正のよく知る声が、少しだけ強張っていた。
「"問題ありません、秀吉様"」
「なら、ええ」
秀吉は皆に見せつけるようににかっと笑い、腰を下ろした。幸村は再び皆を見回して、
「解散してください。ただし、作戦の詳細をお話しますので、中入り隊の方々は残ってください」
と、決して反対意見を受け付けようとはしなかった。羽柴軍において、秀吉とその軍師の決定は絶対だ。逆らう、という概念自体がない。納得できずとも、秀吉様が、もしくは軍師殿がそう言うならば、と引き下がってしまうのだ。そこには、彼らの言う通りに戦をすれば必ず勝てる、という実績と、甘えがあった。結局、ばらばらではあったものの反対を主張していた面々は、誰一人として異論を唱えることなく、この場を去って行ったのだった。
残された者の気配を正確に読み取った幸村は、ぐるりと面々を見やって、
「座ってください。落ち着いて話しましょう」
と、座をすすめた。真っ先に腰を下ろしたのは兼続で、三成と清正は不満そうに腕を組んで佇んでいたものの、
「座ったらどうだ。立っておらずば話が出来ぬわけでもないだろう」
と、兼続に言われ、三成が渋々と従った。正則もそそくさと床几を引き寄せ、どかりと座り込んだ。自分以外の全員が座っていることに居心地悪く感じた清正も、仕方がない、と言いたげに乱暴に腰掛けた。上手に幸村がおり、幸村を挟むように、兼続・三成と正則・清正が向かい合わせとなった。秀吉は会話に入るつもりがないようで、先の軍議と同じ場所で皆を眺めている。
「本題に入る前にいいか。幸村、お前は本陣に居た方がいい。戦闘になるんだろ、危険過ぎる」
「清正の援護をするのは癪だが、俺も同意見だ。お前自ら同伴する必要はないだろう」
「正直、足手まといにしかならん。お前のことだ、自分には構うなと言うかもしれないが、そんなわけにもいかん」
「足手まといは言い過ぎだが、乱戦になってしまえば、守りきれるかも分からん。お前には、極力安全な場所に居て欲しい」
清正と三成が交互に反対を唱える。幸村は、やはり止める気配もなく、ただ彼らの言葉を聞いていた。正則は横から清正の言葉に合いの手を入れていたが、鬱陶しい!と二人から同時に叫ばれ、清正からの強烈な一手の前に沈んだ。段々と二人の声に熱がこもり、三成などは目の前の机を叩く始末だった。壊れるぞ、と兼続がささやかに制止をかけようとしたが、逆にうるさい!と怒鳴られてしまった。
「お二人の懸念は分かりますが、」
幸村はようやく声を発した。大きな声ではないが、空気に鋭く響く声質をしているせいで、二人は咄嗟に言い合いを止めてしまった。
「皆様には簡単に説明しましたが、中入りの作戦自体、とても難しいものなのです。出来れば、わたしが直接指示を飛ばしたいのです。もちろん、あなた方を信頼していないというわけではありません。ただ、わたしが組み立てた策ですので。それに、わたしの身はこれが守ります。心配は無用です」
これ、と言って、顎でくのいちを指し示すという、珍しく行儀の悪い仕草をした。当然視線を集めたくのいちは、はいはーい、そういうのがあたしの仕事なんで、と場の空気に似合わない調子の良い様子で言ってのけたのだった。