結局、清正と三成の反対意見は受け入れられなかった。幸村に、というよりも、軍師という役割の人間に、更にはその背後で場の成り行きを眺めている秀吉に、抗議することが出来なかったからだ。決して恐怖や権力で押さえつけられているわけではないのだが、秀吉には有無を言わさぬ圧力があった。特にこの二人は秀吉を慕っており、彼の言葉には弱かった。
作戦は明朝早くに決行されることが言い渡された。福島隊三千、石田隊二千、加藤隊二千、上杉軍からは三千と、総勢一万の大所帯だ。隊列は福島隊・石田隊・上杉軍・加藤隊の順で、正則には先鋒が任されている。幸村は大将である清正の隊に混ざると言い渡されている。。乗る馬は、半兵衛の庵の往復に使っていた馬ではなく、黒毛の牡馬だ。その手綱はくのいちが握ることになっている。
作戦を説明され、納得出来ぬまま、自陣に帰ることになってしまった。別れる間際、三成は清正と目が合ってしまったが、互いに顔を険しくしただけで、言葉を交わすことはしなかった。連れ立って自陣へと戻っていく清正と正則の背中をちらりと一瞥し、三成は大袈裟に舌打ちをした。それを咎めたのは兼続で、すごい顔をしているぞ、三成、と笑っていた。兼続の大らか過ぎる性格は、三成の険をもってしても敵わないらしい。
「幸村は、あれか。前からああなのか。己の身を省みんというか、己の今の状態を分かっていないというか」
「幸村はなあ、昔から危ない戦場へ飛び込んで行くことが得意な子だったよ」
「…何故お前は止めん」
「あの子は頑固だからなあ。私やお前が言ったところで、聞き入れてくれんだろう。それにな、確かに危険を承知で突き進む子ではあるが、無謀なことはやらぬ子でもある。勝算が必ずあるのだろう。私は、あの子の才を信じているだけだよ」
お前だって、身をもって知っているだろう。
そう、諭すように言われては、三成もこれ以上の反論が出来ない。ただ、素直にそれを認めることの出来ない三成は、ふいと顔を背けた。兼続は一々所作が大きいせいで、苦笑した気配も三成には感じ取ることが出来たが、残念ながら三成は、それに合わせて笑うことの出来ぬ性質をしているので、そっぽを向いたまま会話を続けた。
「…だが、心配だ」
「お前は、かわいいな」
「なっ、馬鹿なことを言うな!」
「思ったとおりのことを言ったのだがな。お前と清正殿は似ているが、そういう所は違うな。あの御仁は幸村の安否以上に、軍師という立場の者が討ち取られてしまった場合の味方への影響を考えているようだった。上に立つ者である以上、そう思うのは必定だ。だが私は、お前の甘さを誇らしく思うぞ」
三成はキッと兼続を睨み付ける。兼続はその鋭い眼光を受けても、おやどうしたのだろうか、と首を傾げるだけだった。
「縁起の悪いことを言うな。そういう可能性があることがあるのは分かってはいるが、」
兼続が笑みを深める。嬉しい、と彼の言葉を聞かずとも分かる、満面の笑みだった。
「お前は本当に、面白なやつだな」
兼続はそう言ってからからと笑い、心配するだけ無駄だ。あの忍びがついている以上、万に一つもあるまい、と三成の先を行ってしまった。三成も慌ててそれに続く。
「けれど、……――――」
「?何か言ったか、兼続?」
兼続が何事かを発したような気がして、三成は問い掛けたのだが、くるりと振り返った兼続は、三成の顔をゆっくりと眺めて、いいや?と笑うだけだった。
(奇襲部隊だけで一万とは。どのように静かに移動したところで、勘付かれるは必至。ならば、我らの役目は囮か陽動だろう)
兼続の呟きなど知らない三成は、既に明朝の戦を前に緊張しているのか、強張った顔をしているのだった。
軍議を終え、正則とも別れた清正は、自陣へ帰る道すがら、正則の言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。
『なーんか、叔父貴と幸村ってぎこちなくねぇ?』
ぎこちない、というのは、中々言い得て妙だった。秀吉は表情を作るのがうまい。期待している、と発破をかけて、本人が思っている以上の力を発揮させる天才だ。だが、幸村に対してはそうではないような印象がある。ただ、それがどういう感情の上でのことなのか、清正には分からない。期待している、という言葉は偽りではないだろう。でなければ、軍師を任せたりはしない。ただ、その信頼とあの表情が噛み合っていないのだ。一人で考えていても答えが出る問題でもない。本人達に訊ねるのが一番だとは思うが、中々に訊ね難い問題でもある。第一、どう伝えたものか、清正自身分かっていないのだ。何となく、二人の間に違和感がある、などと。しかも、清正の勘が、これは放置しておいていい問題ではない、と勝手に警鐘を鳴らしているだけだ。面倒臭ぇな、と乱雑に独白して、清正はため息と共に、今だけはそのもどかしさを外へ追いやった。戦は、目の前に迫っていたからだ。
「幸村」
と、声を掛けたのは秀吉だった。場には秀吉と幸村、影のように幸村に寄り添うくのいちがいるだけで、他の姿はない。ねねは此度の戦には同伴していなかった。彼女は官兵衛の極秘任務に関わっているようで、城でもその姿を見なくなっていた。
幸村は、
「なんでしょうか」
と、秀吉を振り返る。二人共、普段通りの声を繕ってはいるが、親しい者が聞けば、それが不自然であることは一目瞭然だった。ぎくしゃくしている。互いが互いに、どういう態度で接したら良いのか、躊躇ってでもいるかのようだった。二人きりの内密の話になると、外の目がないせいで、余計にその傾向になるようだ。秀吉はちらりとくのいちに視線を向けたものの、すぐに幸村に顔を戻した。三人が同席している場合、くのいちがない者と扱われることの方が多い。彼女は幸村の目であり、影でなくてはならないからだ。
「幸村に全てを任せた。だから、わしは多くを訊ねん。おみゃーさんは、半兵衛の代わりにここにおる。それは、おみゃーさんが一番に分かっとることじゃ。半兵衛の為にも、失敗は出来ん。ゆえの信用じゃ。だから、一つ、一つだけじゃ」
はい、と幸村は硬い声を発した。くのいちは二人のやり取りをただ無心に聞いていた。もし、ここに三成なり清正なりが居たら、どう思うだろう。幸村を半兵衛の代わりだと言う。それを、他でもない、彼らが慕っている主が言うのだ。彼らは、一体何を思うだろう。どんな表情を浮かべるだろう。くのいちは、ただ無心に二人のやり取りを見つめていた。
「三成らを死なせたら、わしはおみゃーさんを一生ゆるさんで」
「承知の上でございます」
秀吉はそう静かに告げて、去って行った。彼の声には、何の感情も宿ってはいなかった。それが余計に言葉に迫力を与えていた。いっそ、殺意すら込められていたかのような。
「幸村様、」
秀吉の気配が完全に居なくなったことを確認して、くのいちはそっと彼の名を呼んだ。彼に動揺はない、驚きもない、怯えもない。当然だ、そのように彼は生きてきたからだ。そのように、もののふの魂を育て上げてきたからだ。目が見えぬという、槍が握れぬという。だから何だというのか。くのいちは思う。彼の魂は今だって尚、このように輝いているというのに。この軍の人間たちの目は節穴ばかりだ。誰も彼も、この主を活かす方法を知らないのだ。
「当に、ゆるされるとは思ってはいないのだがなあ」
突き抜ける程にあっさりとした、頼りのない声だった。くのいちは悔しくて思わず唇を噛み締めてしまったが、それを隠すように底抜けに明るい声で、
「もうっ、幸村様の能天気!」
と、笑った。くのいちは、そうする術しか持っていないからだ。幸村はくのいちの無理矢理な笑い声にふふふと笑っていた。彼も、そうする術しか持っていないのだった。