早朝、福島隊を先頭に、中入り部隊は陣を後にした。幸村が指示した馬への処置をなんとか物にしていた福島隊は、静かに出陣することが出来た。その後には三成隊と上杉軍が、殿(しんがり)に加藤隊が続いた。
静かに進軍する、というのは、清正が思っていた以上に疲れるものだった。馬に跨り歩を進める。ただそれだけのことなのだが、生きている以上、少しでも動けば音や気配が生じる。馬の息遣い、足音、具足の擦り合う金属音、疲労で息の上がる兵も多い。それに、この大所帯だ。気を配っても配り過ぎるということはない。私語は厳禁と言い付けており、それ相応の厳しい処罰を考えていたのだが、疲労感にそれを破る者もいなかった。静かに、目立たぬように、けれども迅速に。ようやく出陣出来ると意気込んでいた中でのこの厳命は、若い兵達には余計堪えたようだった。
幸村は清正の隣りで、くのいちに手綱を握られた馬の上で揺られている。黒鎧の姿は初めて見るものだった。堂々としている姿は流石、とつい思う程であったが、その具足が似合っているかはまた微妙な話だった。地味過ぎるのだ。これでは、多に埋れてしまう。戦の乱戦で的になっても困るが、この色合いでは一般の兵と大差ない。正直言って、軍師として権力を有している者の装いではないように見受けられるのだ。
結論から言おう。中入りは失敗した。徳川の脇を抜ける辺りまでは良かったのだが、抜け切る前に加藤隊が徳川の物見に発見されてしまった。もちろん即座に対応してほとんどを討ち取ったが、数人を逃がしてしまった。羽柴軍の進軍の先には、岡崎城がある。徳川も必死になって追い掛けてくるだろう。
「反転させて、応戦の準備を。伝令!他の隊にも伝えてくれ」
「落ち着いてるな」
「想定内の出来事ですので。清正どのは、陣を鶴翼に敷いて前線で待機していてください。采配はお任せします」
幸村には慌てた様子一つなかった。まるでこうなることを望んでいたかのような素振りすらあった。それを問い詰めようとも思った清正だったが、押し問答が長引くのは避けたかった。隊を一時停止させ、反転、陣を編成し直すには時間を要する。今は僅かな時間でも惜しかった。清正は言葉を飲み込んで、指示を出すべく前線へと駆けて行った。
なんとか加藤隊が応戦体勢を整えた頃合に、徳川の先鋒と衝突した。鉄砲隊の準備が間に合わず、鉄砲隊長の声に応えた斉射はまばらだった。それでも騎馬武者の数人を仕留めたが、足を止めることは叶わず、すぐに白兵戦となった。前線の指揮は副将に任せ、清正は突然の開戦に対応しきれていない兵の鼓舞に自軍内を駆け回っている。徳川軍は着々と数を増やしている。今は勢いを抑えているものの、長期戦ともなれば不利であることは確かだ。幸村には何か考えあってのこととは分かってはいるものの、何も教えられてはいない。とにかくこの場は踏ん張らなければ、と清正は手にしている得物をいっそう強く握り締めたのだった。
加藤隊が交戦を始めて半刻ほど経過した。駆ける勢い活かして攻めかかる徳川勢に、加藤隊もよく対応していたが、ここにきて疲労を見せ始め、じりじりと後退していた。清正も、今では前線で武器を振るっている。鶴翼の右翼が崩れかけたが、先程手当てされた上杉の兵によって持ちこたえているのが現状だが、段々と押されていることを感じ取っている清正は、この辺りでの撤退を考えていた。このままはわじわじわと押し包まれ、壊滅するだろう。清正は幸村の姿を探した。後方に控えているだろうが、層の薄くなった加藤隊の中にいては危険だ。いつ徳川に食い破られて蹂躙されるとも知れない。厳しい状況だが、己の副将ならばうまく対応するだろう。副将を呼び止め、すぐ戻ると言い残して後方へと駆けた。
幸村は、すぐに見つかった。というより、幸村の方が清正を見つけた、と言った方が正しいだろう。幸村の前まで駆け寄り、馬から降りた。砂埃で汚れているものの、幸村の鎧は綺麗なものだ。ただ、流れ矢が飛んでくることもあり、決して油断出来ない状況ではある。くのいちは忙しなく辺りへと気を配っていた。
「幸村、前線はもうそろそろ限界だ。壊滅する前に、撤退した方がまだ体(てい)がいい。許可をくれないか」
幸村もひらりと馬から飛び降りた。けれども清正の言葉に応えることはせず、くのいちに、
「今の刻限は」
と訊ねる始末だ。それに焦れたのは清正だ。出来れば、早く前線に戻りたい。どのような状況になっているのか、気になって仕方がないのだ。
「幸村!時間なんざどうでもいいだろう!撤退だ、撤退!」
けれども幸村は、清正を一瞥しただけで、すぐにくのいちに向き直った。その二人の空気だけが、戦場からは切り離されているかのような静寂があった。戦の喧騒が耳に痛い程だというのに、幸村は慌てた様子もない。いや、慣れているのか。人々の喚き声、銃声、矢が空気を切り裂く音。馬や人の足音、具足のこすり合う音や、得物同士がぶつかる金属音。砂埃が舞い、人々の熱気が空気に充満している。漂うにおいは、血や汗が溶け合って生々しい。それでも幸村は落ち着いていた。戦の熱に浮かされることもない。くのいちと言葉を交わしている。声が小さ過ぎて、会話は清正には届かなかった。幸村はようやく清正を見、口を開いた。彼の声には、まるで清流の涼やかさを思わせる静けさが宿っていた。
「撤退は、なりません。堪えてください。あと半刻、いえ、四半刻の辛抱です。―――撤退だけは、決して許可いたしません」
一瞬何を言われたのか分からず、清正は返答出来なかった。撤退しかない、と己は進言した。それなのに、幸村は撤退だけは駄目だと言う。どういうつもりだ、と清正が吼える。幸村はやはり変わることなく、ただ一言を繰り返した。撤退は、ならぬ、と。
前線に戻った清正は、とにかく兵を鼓舞した。もうしばらくの辛抱だ、だから負けるな、ふんばれ、と。清正の采配は巧みで、押して引いてを繰り返して、徳川の兵をうまく翻弄した。だが小手先の駆け引きに向こうも慣れ始めたようで、段々と釣れなくなってきていた。前線の一部が崩れた、と報告を受け、続け様に左翼が崩れた、と聞き、最早これまでか、と覚悟を決めた程だった。間もなく、徳川の兵が加藤隊を押し潰すだろう。
その時だ。陣太鼓の音が高らかに響き渡った。陣太鼓での指示は軍によって異なっている為、徳川から聞こえるそれがどんな命令なのかは分からない。ただ、どーんどーんと繰り返されたその音を境に、徳川が退き始めた。思わずあっけに取られ、追撃する間を逃してしまった程だ。正直、兵の疲労は限界に達しており、追撃する元気が残っている者も少なかった。退いて行く兵を討ち取るのは、正面で戦っているよりも容易い。まだ動ける者達が、手柄を求めて、遅れながらも追撃していく。清正もその先頭に立って指揮してやらなければならない。あと一踏ん張りだ、と己を奮い立たせ、走り出した。
「なりません、清正どの。追撃は許可出来ません。彼らを止めてください」
乱戦では馬上にあっては目印となる。自然徒歩(かち)となっていた清正の脇を、馬に跨った幸村が通り過ぎて行く。手綱は幸村の手にあり、くのいちは幸村の馬に付き従って駆けている。
「追撃してはならぬ!戻れ、陣を整え直せ!」
幸村が腹から声を出せば、まるで空気を切り裂くように、スッと皆の耳にまで届いた。命令することに慣れている証拠だ。正確には、戦場での喧騒の中での、だが。目に包帯を巻き付けている幸村の姿を知らぬ者はいない。軍師の命令に、追撃へと向かっていた者達も足を止めた。兵達と幸村の信頼関係は、いまや厚いものとなっている。彼らは、幸村に対しても従順だった。幸村の命令に合わせて、清正も、
「追撃はするな!行ったやつは連れ戻して来い!追撃で得た首は手柄の対象にしない。破ったやつは厳罰だ」
と声を飛ばしたのだった。