清正達が陣払いを終えたのは、同盟を結んで五日後のことだった。本隊は既に発っており、唯一大規模な戦闘を行った清正達が、長蛇の列の最後尾となった。朝方には止んでいたが、夜の内に降った雨のおかげで、地面には水溜りが出来ていた。それでも強引に出立を決めたのは、これ以上無駄な兵糧を使いたくなかったからだ。清正達は三成にせっつかれて、帰路についていた。
行軍の道は、平坦な道ばかりではない。時には川を渡り、足場の悪い山道を抜けなくてはならなかった。それでも急ぎの行程ではないので、歩兵の足に合わせてのんびりとした進みだった。ぬかるんだ地面は人の足だけでなく、馬の足も鈍らせた。ついで、真夏の暑さは人の体力を見る見る奪っていった。空気はじっとりと湿っており、容赦なく肌に縋り付いて、不快感をもたらしている。雨が降っても涼しくはならず、蒸し暑い行程が続いた。
丁度、一番の難所に差し掛かったところだった。足場は狭く、馬が並んでは歩けぬ程細い。山頂を過ぎたばかりで高度もあり、切り立った足場から下を覗き込めば、はるか下方に流れる川がかろうじて見える程度。本来ならば大軍向きの道ではないのだが、近道になることと、羽柴の直轄領であることを理由に採用された。戦闘という戦闘を行ったわけではないから、体力も問題ないだろう、との見解らしいが、清正からすれば、この蒸し暑い中毎日歩かされるだけで疲労も溜まるというものだ。奇襲を受ける危険はないものの、伸びきった列に呆れすら抱いた。途中で倒れる者も出る始末で、この山を越したら一度、まとまった休息をと考えていた、まさにその時だった。
加藤隊の先頭で馬に揺られていた清正は、止まるように合図を出した。何かはっきりとした理由あってのことはない。ふと、何かを感じ取っただけだ。副将に、どうしましたか?と訊ねられたものの、清正ははきとした言葉を返せなかった。いや、と小さく呟いたものの、その先が続かなかった。立ち止まっている清正の元に、幸村が駆け寄ってきた。てっきり三成の隊の世話になるのだとばかり思っていたが、一時は壊滅にまで陥った加藤隊に思うところがあるようで、彼は半ば勝手に加藤隊に加わった。幸村は加藤隊の騎馬の最後尾に居たはずで、止まったことに対する行動であるのなら、些か早過ぎる。彼の隣りには珍しくあの女忍びはおらず、鉄砲隊長を任せている者が付き添っていた。
「どうしたんだ幸村」
「なにやら、山の様子がおかしい気がしまして。清正どのも同様では」
ああ、と頷いて、幸村が注意深く辺りの様子を窺うのを真似て、清正も馬から降りて耳を澄ませた。幸村の方が感覚が鋭く、彼の天気予報はよく当たっている。
最初は皆の足音のように聞こえていた。地を這うような低い音が、耳鳴りのようにゆっくりと響いている。段々と音が大きくなり、皆も異変に気付いた。その場に棒立ちになり、不可思議な音に耳を傾けている。段々と大きくなる、というより、段々と近付いてくるその音に、まず幸村が声を上げた。
「土砂崩れです!」
幸村が声と共に上を指差した。雨で崩れた土砂が、今まさに清正達の方へ向かって流れ出そうとしていた。ごうごうという音が、すぐ近くまで来ている。地面の上を土砂が滑るなどという生温いものではなく、見えない力が土砂を引っ掴み、思い切り投げ付けたような速さと恐怖があった。
「逃げろ!」
と、咄嗟に清正が声を荒げたが、清正達がいる足場には避難出来るような場所はなかった。慌てて走り出した数人が、崖へと転がり落ちそうになって仲間に引き上げられていた。
「とにかく下がれ!ここら一帯だけだ!落ち着いて行動しろ!」
バリッバリッという音が、すぐ後方から聞こえた。木を薙ぎ倒している音だろう。むっとする程濃厚な、生ぐさい土のにおいがする。思わず噛み締めた奥歯が、じゃり、と砂に当たったような気がした。
「間に合いません!伏せて、」
取り残されかけている幸村の腕を掴み、そのまま引き寄せる。幸村の言葉尻は轟音に掻き消されて聞こえなかった。騒音の真っ只中に放り込まれたようだ。部下が周りにいないことを確認する時間はなかった。生温い大きな塊が清正の全身に体当たりをしている。踏ん張ることなど到底不可能だった。清正の身体をいとも容易くねじ伏せる勢いがあった。後は、なにがなんだか分からなかった。呼吸をすることもままならず、この腕の中に幸村が居るかどうかも分からない感覚の中、清正は土砂の波に押し流されてしまったのだった。