日の出と共に、清正は部下たちに声をかけて出発を促した。日の昇りきらない、まだ暑さがマシなうちに少しでも先に進んでおきたかったからだ。戦にもまだ慣れていない若い連中は特に疲労度が高く、寝にくそうにしていた割りに、清正が声を張り上げて起こさなければ目を覚まさなかった。出来ることならゆっくり休ませてやりたいものの、状況がそれを許さない。手のかかりそうな四人にそれぞれ激を飛ばしながら、早く行くぞ、と眠気が覚め切らない頭を順々にはたく。こういった事態にも動揺した様子のない兵太夫がいることが有り難かった。不機嫌そうに見えてしまう清正の緩衝材となっていることは確かだ。不安の残る四人の面倒を見ている脇で、兵太夫が幸村に声を掛ける。どこか距離を置いている四人に比べたら、兵太夫の対応は穏やかで、幸村を任せていても大丈夫だろう。ただ、少々馴れ馴れしすぎるところはあるが。今も、腕を掴んで引っ張り上げるだけで済むものを、勢いよく腕を引いてそのまま抱き上げて幸村を驚かせている。余程予想していなかったのか、びっくりした幸村が無意識だろうが、しがみ付いてる様が見えて、何となく釈然としない。そんな清正の内心を見透かしているように、ちらりとこちらを振り返る兵太夫に、清正も少しだけ顔を顰める。これさえなければ、本当に頼れる鉄砲隊長なのだけれど。

「そろそろ行くぞ。兵太夫は先頭を頼む。俺は幸村と最後尾につく」
 少ないながらも朝食を済ませ、清正が音頭をとる。幸村は、はい、と立ち上がったが、その手を取ったのは兵太夫だった。気配に敏い幸村だ、隣りで己を支えているのが清正ではないと分かっているようで、言葉を求めるように清正に顔を向けた。
「今日は俺が誘導しますよ。清正様はそっちの坊ちゃん方の引率をお願いします」
 揶揄する口調に若手四人からは文句が飛んだが、それを笑って流してしまえるのがこの男の強みだ。清正も、彼なりの気遣いだとは分かってはいるが、幸村の腕を掴んでいるその手が、やはり何となくつまらないな、と感じる。別段、彼の隣りには自分が居てやらねば、と思うわけでもないはずなのだが、自分のことながら納得いかない。もやもやとしたものを抱えたまま、言葉を途切れさせた清正と兵太夫の見合いの沈黙がしばし流れた。
「あの、清正どのにばかり頼っていては、負担になってしまいますから。今日は兵太夫どのにお願いしたいと思うのですが、」
「軍師様、意外に軽いんで、俺も一日ぐらいは持つと思いますよ。明日はちゃんとお返ししますから」
 既に内話は出来ていたようだ。憮然としないものを感じたが、無言の圧力をかけたところで効く相手ではない。調子に乗るなよ、と意味を込めて、強めに兵太夫の肩をはたいて、清正は先頭で歩き出したのだった。


 一行は黙々と歩みを進めていたが、最後尾の兵太夫と幸村は、身体を密着させているせいか、ぽつぽつと会話を交わしながらの道中だった。やはりと言おうか、二人の歩みはゆっくりとしたもので、清正も気遣ってはいるようだが、集団から少しばかり距離が開いてしまっていた。声を潜めるように言葉を発すれば、彼らには届かないだろう。それを意図したものだったのか、元々よく通る声を持っている兵太夫だが、幸村にかけた声は随分とひっそりとしたものだった。
「すみませんね。うちの若い連中は、色々と経験不足なもんで。本当は気のいい奴らなんですよ」
「いいえ。むしろ、よく教育されていると思います。正直、後ろから刺されても仕方がないと思いますから」
 軍師という役に限らず、人の上に立つ者として、人の命を預かっているという自覚は必要だ。もちろん、幸村はそんなことは百も承知だし、清正だってそうだろう。ただ、命は尊いものだと覚るように、命の重さは決して等しくはないということもまた、当然のことのように知っている。末端の雑兵にまで魂が宿り感情を持ち個を有していることは分かってはいるものの、いざとなれば簡単に切り捨てることが出来てしまう人間なのだ、という自覚が幸村にはある。長く戦の渦中に身を置いていた幸村にとってその考え方は至極当然のことでもあり、また、中々理解されないものだということも重々分かっている。彼らの命を守りながらも、彼らの命を危険にさらし、時に盾にし刃にし、時には己の命すら賭けてかばい、時にはあっさりと見捨てることが出来る。眉一つ動かさずに出来てしまうのだ。
 ゆえに、幸村には怒りも憤りも、彼らを恨む心すらない。そうされることを諾としてはいても、己はそれすらも受け止めなければいけないと分かっている。むしろ、仲間の為に怒ったり泣いたり笑ったり出来る彼らの柔軟な心を気持ち良く思うばかりだ。自分にはついぞ芽生えなかったものだな、と僅かに自嘲する。

「なあ軍師様、あんた、なんでそんなに諦めてるんですか?」
 諦めている、という言葉が妙に的を射ていた。人と人との認識の差異を、そこから生まれる誤解を、幸村は諦めているし、どうにもならないものと問題にすら思っていない。ただ、きっと諦めているのは、それだけではないのだ。自覚はあったが、兵太夫にそれを言うつもりはなかった。きっと、この包帯の下を誰にも見せることのないように、誰にも告げることのない諦観なのだ。
「…秘密、です」
 するりとその言葉が出たことに、幸村は内心ほっとした。動揺は、なかったはずだ。朝、声をかけられて挨拶を返したように、あっさりと発することの出来た調子のまま、幸村は気軽な声で訊ね返した。彼のように敏い人間に何かしらを勘付かれるのは居心地が悪い。
「それより、あなたはどうして、わたしに親切にしてくださるんですか?」
 先の戦では、加藤隊が大いに被害をこうむった。彼の親しい者を亡くした可能性だってある。けれども、年長者の意地か、幸村同様そういうものだと受け入れているのか、兵太夫は幸村に対して私情を挟むことはなかった。
「清正様の恩人だから、からかなあ。清正様の代わりに怪我してくださったおかげで、あの方は元気に怒っていられるわけですし」
「それは違いますよ。わたしが勝手に清正どのにくっ付いて、わたしが勝手に怪我をしただけです」
 幸村の本音だった。彼の代わりに怪我をした、などとは欠片も思っていない。もう少し意識を保っていられたら、あの濁流の中であってもかすり傷ぐらいで済んだだろうに。危機感が鈍っているな、と幸村は心の中で自嘲した。あの頃は、こんな怪我など滅多にしなかったし、こんな怪我程度を痛い痛いと呻くこともなかったのに。ああ嫌になるなあ、とこっそりとため息を吐き出した。
 幸村の心とは裏腹に、兵太夫は、
「別にそれでもいいんですよ。俺がそう思ってるだけなんで」
 そう言ってからりと笑い、ありがとうございました、と支えるのに差し支えない程度に頭を下げた。あまり買いかぶらないでくださいよ、と幸村が苦笑を零せば、軍師様は真面目だなあ、だから清正様も気に入るんでしょうね、と笑っていた。


 その日の夜、少しばかり幸村と清正の部下四人が揉めた。清正が兵太夫と食料の確認をしていて目を離した隙だった。怒号が聞こえたのはあまりに唐突だったが、彼らなりに溜め込んでいたものがあったのだろう。予想出来ていただけに、彼らの側で幸村を一人きりにしてしまった自分の迂闊さに、思わず清正は舌打ちしていた。
 荷物の整理を兵太夫に任せ、清正がその場に駆け付けると、尻餅をついている幸村を四人が見下ろしていた。幸村はこちらに背を向けているので表情までは分からなかったが、四人に浮かんでいた感情は、怒りであり恨みであり、困惑でもあった。元々心優しい若者たちだ。幸村の今の状態に、八つ当たりをするにも仕切れず、けれども怒りの行方が分からずに、つい爆発してしまったのだろう。清正は幸村は抱き起こしながら、何があった、と幸村に訊ねたが、幸村はいつもの愛想の良い仮面のまま、別に何もありませんでしたよ。わたしが一人で転んだだけです、と裾を払った。嘘だということは分かっているのだ。清正は四人に視線を向ける。兵太夫のように距離の近い部下もいるが、そればかりでは組織は締まらない。良くも悪くも清正の凶悪さを知っている部下たちは、清正がじろりと睨み付けただけで竦み上がる者も居る程だ。特に若年層はその傾向が強い。今も、清正に睨まれて、四人は顔色を無くし、表情を強張らせた。
「もう一度訊くぞ。何があった?」
 先よりも一言一言を強調すれば、可哀想なまでに四人は震え上がった。幸村一人が場の空気をあえて読まずに、能天気な声で、何もありませんでしたよ。清正どのは心配性ですね、と笑っていたが、誰もそれに続く者はいなかった。幸村がどう誤魔化そうとも、部下の非を黙って見過ごすわけにはいかないのだ。自分の為にも、彼らの為にも、だ。

「俺ら、もう限界なんですよ!」
 一度堰を切ってしまえば、言葉は後から後から、自分たちを飲み込んだ濁流のようにあふれ出した。
「そいつは俺らの仲間見殺しにしといて、のうのうと笑ってるんですよ!」
「俺らや清正様に迷惑かけて、世話焼かして!それなのに平然としてるんですよ!」
「そいつのせいで、あいつは死んじまったのに…!!」
 ちら、と幸村を見れば、顔こそ彼らに向けられているものの、その言葉が届いているのか、と疑問に思う程に、彼は平静だった。動揺するどころか、彼はあまりにもいつも通りで、あまりにも静かで、むしろそれこそが無表情を思わせた。
「それで?お前らは、幸村傷付けて満足か?それで気が済むのか?」
 彼らの憤りの原因を作ったのは幸村だ。清正もそれは否定しない。ただ、その根にあるのは、理不尽を強いる戦ではないだろうか。彼には彼の考えがあって、彼の最善の為に彼らは切り捨てられたのだ。
 言いよどむ彼らの目に、怒りだけではなく、躊躇いや後悔を感じ取って、清正はさっさと幸村の肩を引いて、彼らに背を向けた。
「お前らの気持ちも十分分かる。だが、怒りの矛先を間違えるなよ」
 場の居心地の悪い空気に、幸村が身じろぎをする。幸村は清正の様子を窺うように清正の名を呼んだ。
「あいつらも馬鹿じゃない。あとは自分で考えるだろ」
 それより、本当に怪我してないんだろうな、と疑い深く訊ねれば、幸村もようやく笑みをこぼして、大丈夫ですよ、と頷いたのだった。










  

13/08/18