遭難して三日が経った。先頭に兵太夫が立ち、その後ろに清正の部下がぞろぞろと続き、最後尾を幸村を支えながら清正が務めている。雨の兆しはなく、さんさんと陽が降り注いでいる。立っているだけでもじわりと汗をかく、むっとした湿度を孕んだ熱の中、一行は黙々と進んでいる。手足の動きを鈍くする疲労は徐々に体力を奪っていくが、止まるわけにはいかなかった。
清正は、顔を伝い顎からしたたる汗を乱暴に拭いながら、ちらりと幸村の様子を窺った。幸村は気丈なもので、痛む素振りをあまり見せない。大丈夫かと訊ねれば、大丈夫です迷惑をかけてすいません、とそればかりだ。はっきり言って、どこも大丈夫ではないのだが、幸村は弱音一つ吐かず頭を下げてばかりいる。汗をかいている幸村がどこか新鮮で、こんな場面でなければ彼に軽口を叩けたかもしれないが、残念ながら皮肉混じりの言葉を吐く気にもなれなかった。ああ幸村もちゃんと汗をかくんだなあ、と彼の首筋を流れて行く汗の行方を目で追う。
「今日は特に蒸すな」
「あ、ええ、はい。そうですね」
突然に話しかけられて、幸村の反応は少しだけ遅れた。珍しいことではあったが、密着しているからといっても、常に言葉を交わしているわけではない。少しでも体力を温存しておかなければならないのだ。それでも、昨日よりも幸村の汗の量が多い気がして、つい口が滑った。どれだけ暑かろうが、涼しい顔をしていそうな気がしただけに、当たり前のことを口に出してしまったのだ。
「堪えていますね、彼ら」
会話の尻を捕まえて、幸村は視線で"彼ら"を示す。時々兵太夫に茶々を入れられながら固い表情で歩を進める、あの四人だ。幸村の様子に彼らに対する嫌悪はなく、むしろどこか微笑ましげに捉えている風ですらあった。幸村は幸村で、彼らの気持ちが分かっているのだろう。ただ、清正は幸村のように全てを容認することは出来ない。彼はそうやって部下を大切にしたのだろう。清正とは異なる方法だ。
「堪えてもらわねぇと、こっちも困る。そのためにやってんだからな」
清正は、彼らをとことん無視をした。幼稚な手法ではあるものの、これが随分と効くのだ。相手が兵太夫であったのならまた違った方法を取っただろうが、まだ若く、良くも悪くも成長途上である彼らに反省を促すには十分だ。
「随分と厳しいことをおっしゃる」
「お前と違って、俺に人たらしの才能はないからな。ないなりに、どうにかして部下に慕われんことには、隊はまとまらん」
「はい。清正どのを中心に、よくまとまっている隊だと思いますよ。ただ、わたしにも人たらしの才能はありません。よく叱られたものです、甘やかすんじゃない、と」
己の隊の団結力に自信はあったが、改めて幸村にそれを褒められると、悪い気はしなかった。幸村は口許に笑みを浮かべていた。機嫌が良さそうだ。あるいはそれも演技かもしれない。清正は一度として幸村が悪態を吐いているところを見たことがないのだ。これが猫かぶりだとしたら、とんでもない精神力だな、と、垂れる汗を拭った。本当に暑い。幸村ですら、たくさん汗をかいている。この時はその理由を、ただ暑いから、湿気が多いから、としか捉えなかった清正は、後々後悔することになる。
陽は中天に差し掛かり、光りがじかに肌を焼いているように感じられ、清正はやむなく行軍の中断を提案した。気力でなんとか立っていたのか、先頭集団の五人がへたり込むように腰を下ろした。丁度良く洞窟を発見したことも理由の一つだ。中は外よりも当然涼しかったがじめじめしており、座り込めばすぐに衣服に滲むだろう。泥と汗で汚れに汚れた着物だ、誰も気にはしないだろうが。
お前も座って休めよ、と、とりあえず洞窟の奥に手を引いた時だった。幸村の身体がぐらりと揺れた。そう強い力で引っ張ったわけではない。幸い、身体が傾いた程度で転ぶことはなく、なんとか踏み止まったようだが、彼の不調を知るには十分だった。問い詰めるように、幸村、と名を呼べば、まるで誤魔化すように、
「ただの立ちくらみですよ」
と、その後に彼の笑みが続いた。が、声に覇気がないのだ。いつもの調子をどうにか繕おうとしているようだが、少し呼吸が荒い。気力を振り絞って声を出しているように感じられた。無意識に距離を置こうとする幸村を、問答無用で引き寄せる。熱い、気がする。炎天下の中では己の体温も上昇していたせいで、密着していても気付かなかったが、洞窟の空気で人心地付いた指が、幸村の異常を訴える。幸村が制止するのも聞かず、彼の額の髪を掻き上げて、手の平を押し付ける。幸村が何かを耐えるように唇を噛む。僅かに覘いている頬が、この薄暗い洞窟内でもはっきりと分かる程に赤く染まっていた。額は、清正が予想していた以上に熱を持っていた。
「熱、出てるんなら出てるって言えよ。しんどいんだろ。自覚あるとは思うが、結構高いぞ」
「発熱は想定内ですので。それに、これ以上迷惑は」
「だから、それはもういい。とりあえず、横になれよ。怪我の具合も確認するぞ」
少し怒りを滲ませた声を発した清正に、幸村も僅かに抵抗を見せた。ぐいぐいと腕を引く清正の手を空いている方で掴んで、引き止めようとしている。
「幸村。聞き分けの悪いガキじゃねぇんだ。自分がどうすればいいのか、本当は分かってんだろ」
言い聞かせるように言いながら、そっと手を外す。幸村も今度は抵抗しなかったが、自分から動くことはなく、清正が少々強引に座らせて渋々従った。
添え木を固定している手拭いを外す。そこは赤紫に腫れ上がっていた。こんな状態で歩かせていたのかと思うと、清正も思わず唇を噛んだ。呼吸音すら骨に響くだろうに。
「相当痛いだろ。かなり腫れてるし、内出血もひどいな」
「多少は痛みますが、歩けない程ではありませんよ」
「幸村」
「本当です。少し身体がふらつきますが、一人で歩いているわけではありませんし。問題ありません。痛みには鈍いですから、だから大丈夫です」
ね?と同意させるように幸村がゆるく笑みを作ったが、清正はそれをむすりと口を結んで黙殺した。
彼をこれ以上動かすのは無理だ。清正の結論が出るのは早かった。ここで無理に動かして、後遺症が残っても困る。常に姿勢の良いと言われる彼の、整ったものが一つでも歪むのが嫌なのだ。いや、こんな時にそんな悠長なことを考えているのはおかしいか。だが、清正は純粋にそう思ったのだ。こんなにもきれいに背筋を伸ばしている男の、悉くが美しく出来ている男の、一部分でも歪みがあっていい筈がないのだ。
手早く足首を固定し直して、清正は兵太夫を呼んだ。どうしても過程で患部に触れてしまったが、幸村は痛みを耐えるように唇を噛んで、声一つ上げなかった。その精神力にはほとほと頭が下がる。
「俺は幸村とここに残る。お前は馬鹿四人を連れて山を下りろ」
「清正どの、わたしは大丈夫です」
噛み付くように言う幸村に、清正は構うことなく、いいな、と兵太夫に命令する。目敏い兵太夫のことだ、幸村の頬が赤いこと、呼吸が乱れ気味なことに気付いていたのだろう。それでも、即答が返ってこないのは、彼なりに二人を気遣ってのことだ。何があるか分からないのなら、二手に分かれるのは得策ではない。救助が必ず来ると確信があるならまだしも、それも現状では分からない以上、自力で下山する方が判断としては正しいだろう。この場合、足手まといにしかならない幸村を置いて行って、という前提になるが。目が見えない上に、歩行すらままならない怪我人と共にここで救助を待つというのなら、清正に掛る負担は計り知れない。
「兵太夫、お前らは一刻も早く下山して、助けを呼んできてくれ。これを頼めるのはお前らしかいない。疲れてんのは分かってる。が、頼れるのはお前らしかいないんだ。おい!お前らも聞いたな!挽回するならここだぞ!」
先程まで自分たちをいないものとして扱っていた主の突然の言葉に、四人は複雑そうな顔をした。清正の命令には従いたい、でも、それが決して正しい選択ではないことも分かっているのだ。
「いいか、俺らの命はお前らにかかってんだ。俺を助けたかったら、さっさと下山して救助隊でもなんでも派遣してもらえるよう、ひたすらに頭を下げろ。いいな、分かったらさっさと出発する!」
半ば脅しの命令だ。しっしと追い払うように手を振れば、兵太夫が盛大にため息をついて、了解しました、と頷いた。こうなった清正は梃子でも動かないことを知っているのだ。でも、と、未だに重い腰を上げようとしない四人の肩をそれぞれ叩いて、行くぞお前ら、と促している。彼がいて助かったな、と清正は厳しい顔を作ったまま、内心でほっと胸を撫で下ろした。部下たちが口々に出立の言葉を掛けていくのを、一つ一つに神妙に頷いていた清正は、幸村が思いつめたように顔を伏せていたことには気付かなかった。