次の日、幸村はいつも以上に無口だった。昨夜の出来事を引き摺っていることは分かっていたが、清正はかける言葉が思い付かなかった。こんなことが起きていながら、事実お前を嫌いになんてなれやしないんだ、と、それだけを伝えられたらどれだけいいだろう。幸村は、簡単に人との関わりを切り捨ててしまえる。もし仮に、清正がここで幸村を嫌悪したところで、嫌わないでと訴えることもせず、ああそうですか分かりました、と簡単に諦めてしまうのだ。清正が嫌うなんてことは、絶対に在り得ないのだけれど。ただ、幸村は"それでも"いいのだ。そうやって清正が離れて行ったところで、"ああそうですか分かりました"でしかないのだ。悔しい、と無性に思った。同時に腹が立った。結局この男は、清正のことなど見ていないのだ。清正のことなどどうでもいいのだ。
幸村は身体を横たえたまま、ほとんど微動だにしない。起きているのか、寝ているのか、寝ている振りをしているのか、全く分からないのだ。熱も上がってきて辛いだろうに、呼吸の音すら抑えて、幸村はひっそりとそこに居る。
「幸村、食事だ。つっても、腹の足しにもなんねぇけどな」
「わたしは結構です。清正どのが召し上がってください」
「そうはいかねぇだろ。むしろ、栄養つけなきゃなんねぇのはお前の方だ」
幸村はのろのろと身体を起こしたが、清正を一瞥しただけですぐに顔を伏せてしまった。調子が悪いことは分かっていた。頬は赤くなっていたし、痛みを我慢しているのか脂汗が浮かんでいた。唇は色を失くしており、そこから吐き出される言葉も弱々しい。
「今からでも遅くはありません。清正どのも下山してください」
「俺はここでお前と助けを待つって決めたんでね。お前にも伝えたはずだぞ。三成程じゃないが、俺も中々に頭が固いからな、一度これと決めたことをそう易々と変えたりはしない」
「それなら初めから、彼らと共に行くべきだったんです。こんな足手まといの為に仏心を出して。こんなところで犬死したら、どうするんですか」
「そん時はそん時だ。お前と心中だな」
「ふざけないでください。あなたは悔しくはないのですか、未練ではないのですか、」
ここは、戦場ではないというのに。
どきりとしたのは、幸村の背後に確かにもののふの影が見えたからだろうか。この男は本当に、戦場で死ぬことを誉れとして生きてきたのだ。そうすることが一番の名誉、それこそが極上なのだと。もしこの世に、奪ってはならない絶対があるのだとしたら、この男から槍を取り上げることだったのではないだろうか。こんなにも真っ直ぐに、愚かな程真っ直ぐに、ただそれが隣りを在ることだけを許して生きていたこの男から、奪ってはならなかったのに。
「それは、お前のことだろう幸村」
空気が弾けた。幸村が唐突に殺気を放ったからだ。怯みはしないが、この温厚な男にも、肌をびりびりと刺すような激情があったことに、清正は驚き、同時に苛立ちが湧いた。腹に溜め込んで溜め込んで、苦しくなる程溜め込んでおきながら自分一人で完結しようとしている、幸村の身勝手さにだ。
「そうですよ。本来は、人の世話になっていることすら堪えられないというのに、今では誰かの手がなければ生きてはいけません。槍も握れず、指揮も出来ず、ただ紙面を頼りに軍師の真似事をしているこの屈辱を、あなたは分かりますか」
「分かんねぇよ。お前はいっつもにこにこして、仙人みたいに何でもかんでも達観したような面して。不便はねぇか、無理はしてねぇか。そう訊いても、大丈夫の一点張りだったじゃねぇか!」
「言えると思いますか!」
「言わねぇと伝わんねぇよ!愚痴りたい状況だってのは分かる。でも、お前は愚痴一つ言わねぇ。言いたいのに言えないのか、本当に言いたいことがねぇのか、それすら俺には分かんねぇんだよ!」
元々、痛みで苛々していたのだろう。清正が苛立ちを隠さずに爆発させれば、幸村も引き摺られるようにして口調を荒げた。安静にしていなければいけない、だとか、そんな頭は端からなかった。理性が飛んでいたのは、幸村だけではなかったのだ。
「お前は適当に俺らに付き合ってただけかもしれねぇけどな、俺も正則も、もちろん三成だって、そんな薄っぺらな関係だって思ってねぇぞ。けど、お前にとっちゃあどうでもいいんだろ。俺にどう思われてようが、お前にとっちゃあ取るに足らないことなんだろ。お前は自分のことを分かってくれないと言うがな、俺に言わせれば、どうでもいいと言われた俺の気持ちが分かるのかよ!」
「どうでもいいなどと言っていません!わたしは結局は置いていかれる側の人間です。そんな人間が、今更誰と親身になれますか!誰を信じられるというのですか!どうせ、あなただってすぐにわたしのことを忘れてしまうというのに!」
「なんでそうなるんだよ!もっと足掻けよ!才能あるくせに、無駄にすんなよ!」
「足掻ける状況にないからですよ!元はと言えば、あなたの主が、」
「――秀吉様?」
幸村ははっと口をつぐんだ。続きを聞かなければならない。自分の中の本能がそう叫んでいた。どうしてそこで秀吉が関係してくるのか。幸村を縛っているものは何なのか。清正は幸村との距離を詰めて、ぐっと幸村の腕を掴んだ。幸村が初めて怯んだ。露になることを、清正に見つかってしまうことを、彼は怖れていた。
「秀吉様がどうした?おいさっきの剣幕はどこ行ったんだよ。言ってみろよ。ここまで叫んだんだ、今更だろ。ほら、言っちまえよ」
「………」
「幸村、」
掴んでいる指に力を込める。幸村は言葉を探すように、口を開閉させた。空気を求めて水面に顔を出す金魚のようにも見えた。息苦しさに喘いでいるのかもしれない。羽柴の家は、彼には生きにくい環境なのだろうか。そういうのを改善してやりたい、と思う自分は、彼にとっては鬱陶しい存在なのだろうか。苛々する。結局幸村は、自分の殻に閉じ籠ることを是とするばかりで、助けを求めることすらしないのだ。念頭にすらないのだ。助けてって言ってみろよ。苦しい、どうにかして欲しいって、この手を掴んでくれよ。お前にとって俺は、そんなにも無意味な存在なのだろうか。
「…言いません」
「幸村」
呼ぶ名に、苛立ちが混ざった。ぎりっと思わず腕に力が入ってしまい、彼の腕に指が食い込む。みしりと骨が鳴ったような錯覚を感じたが、痛覚が鈍いのか、幸村は痛がる素振りを見せなかった。無視をしてしまえる範囲なのかもしれない。
「もう良いのです。もう、どうにもなりませぬゆえ」
幸村はそう言って、先程の空気を誤魔化すように、無理矢理に笑みを作った。そういうところが気に入らないのだと、どうして通じないのだろう。どうにもならないとしても、言うぐらいのことはいいだろうに。ここには己しかいないのだから、己に存分に縋って文句を言って、好き勝手に振る舞えばいいのに。
波が引くように、徐々に静かになっていく空気が、ようやく二人に冷静さを取り戻させた。幸村は同時に、激昂して忘れていた痛みや身体のだるさを思い出したようで、大きく咳き込んだ。ごほごほと中々治まらない咳に清正も不安になって、彼の背中をさする。その時にようやく放した彼の手首は、清正の指が強く食い込んでいたせいで、赤く痕が残っていた。
「おい大丈夫か。とりあえず横に、」
今度は幸村が、がしりと清正の腕を掴んだ。掴むというよりも、締め上げるような力強さだった。まだそんな力が残っているのか、と状況をどこか遠くから眺めている己がぽつりとそんな感想を零した。
「…これ以上、わたしをみじめにさせないでください、」
ふっと、幸村の身体から力が抜けた。慌てて身体を抱き寄せて、支えながら幸村の口許に耳を近付けた。ああ大丈夫だ、気を失っただけのようだ。こうして触れていれば、幸村の体温の高さが分かる。あの言い合いで余計に体温が上昇してしまったのだろう。彼を寝かせながら、清正は額に張り付いている前髪を払う。荒い息が清正の耳にまで届いた。もしもこの眼が見えていたら、一体何が変わっただろうか。