清正が目を覚ました時、既に幸村は起きていたようだった。清正の動く気配を鋭く感じ取って、彼はゆっくりと身体を起こした。昨夜は気を失ってそのまま眠ってしまったのだ。幸村の体力は、そろそろ限界かもしれない。彼は何も言わないから、何とも判断の難しいところだが、常人であれば意識を保っていることすら困難だろう。我慢もここまでいくと呆れるべきか、感心すべきか。
幸村は掠れた声で、おはようございます、と清正に声をかけた。その声は昨日、感情のままに叫んだ者と同一人物とは思えない程、静かだった。元々聞き慣れているのはこちらだが、昨日のことがあった以上、どちらが彼の本当の姿なのかは分からなかった。全てを暴きたいわけではないのだ。何かあった時、どうしても耐えられなくなった時、一時休める場所として、清正の存在を思い出してくれれば、清正はそれで十分なのだ。
「昨日は、すみませんでした。見っとも無いところをお見せしました」
痛む足を庇いながら、幸村が頭を下げる。本当は、そんなことわざわざする必要はない、と言いたかったが、きっとこれも、彼なりの自己満足なのだろう。彼のしたいようにさせているのが、彼にとっては気楽なのだと己に言い聞かせる。
「見っとも無くなんてねぇよ。お前もちゃんと怒れるんだと思って、安心したぐらいだ」
幸村の声に既に棘はない。元々冷静な男であるし、良くも悪くも客観的な視点を持っているのが幸村だ。清正が起きるまでの時間で、己の言動を振り返っていたかもしれない。清正も、もう昨日のように彼の口から無理矢理に聞き出すつもりはなかった。熱で感情が制御出来なかったとは言え、いつも穏やかな男が声を荒げて愚痴を吐いたのだ。彼自身が感じた衝撃は計り知れない。
「安心、されたんですか?」
「そりゃそうだろ。俺みたいな荒っぽい奴はな、清廉潔白を体現してるような奴が苦手なんだよ。お前が聖人君子みたいな生き仏じゃなくて、ほっとしてんだよ」
ふふ、と極々自然に幸村は笑みを零して、確かにわたしは仏様ではありませんからねぇ、と柔らかい声を発した。こっちの声の方が好きだな、と清正は純粋に思った。こちらの方が、幸村らしいと思う。
救助を待つ、というのは、意外に疲労がたまるのだ。特に精神面での。いつか来る、と信じて待つことしか出来ない受け身の状況は、自分の足で前へと進んで行きたい清正にとって多大な我慢を強いた。いつか来る、いつか来ると言い聞かせても、いつ来るのだろうと、ついつい自分に投げかけてしまう。今日だろうか、明日だろうか。それとも明後日、五日後、十日後、もしかして一月後だろうか。はっきりとした答えのないその問答は、清正を焦燥させる。幸村の体力が持つだろうか。悪化しないことを祈るばかりだが、環境は良いとは言えない。弱っているところへ風邪をひいて、そのまま寝込む可能性だってあるのだ。骨折からの発熱で体力が低下している今、懸念し過ぎということもない。抵抗されようが嫌がられようが、彼を担いで下山すべきだろうか。それをするには己の体力も不安であったし、部下たちには鼓舞する為に簡単に言ったものの、麓までの距離も不明である以上、向こう見ずの決断だけは避けたかった。
陽の高さで時間と距離を測りながら、清正は洞窟の周辺を見て回った。既に日課となっていた。洞窟内ではどうしても外の音が聞こえにくく、折角の救助の声を聞き逃す可能性があったからだ。
特に収穫もないまま、すごすごと洞窟へ戻った。陽の傾きから見て、そろそろ夕刻だろうか。日中よりも随分と過ごしやすくはなるものの、それでもむしむしとした暑さは残っており、洞窟内も少し息苦しく感じた。幸村は足を投げ出した状態で壁にもたれかかりながら、時折荒い呼吸を繰り返している。確実に熱が上がってきているようだ。清正の足音に戻ったことに気付いただろうが、僅かに顔を上げただけで、それ以上の動きはなかった。寝転がっていた方が楽じゃないか、と訊いてみたものの、無意識に丸まって寝てしまう癖があるようで、怪我をしている足に負担がかかってしまうらしい。座っているのも横になっているのも、そう大差ありませんから、と幸村は気丈に笑っていたが、その額には大粒の汗が浮かんでいた。せめて痛み止めになるような薬草が生えていればよかったのだが、残念ながらそのようなものは見当たらなかった。
赤い顔をして荒い息を吐く幸村の隣りに座りながら、水を飲ませたり、首筋を流れる汗を指先で拭ったりしている。幸村はその都度、申し訳なさそうに身じろぎをするものの、抵抗するだけの気力はないようで、居心地が悪そうに視線をさ迷わせるように首を揺らしている。
「すみません、何から何まで、まかせっきりで」
「お前の仕事は、少しでも良くなるように体調を整えることだろ」
邪魔そうな前髪を払いながらそう言えば、幸村が顔を上げて、まるで目線を合わせるように清正へと向き直った。何か言いたげな様子に見えて、清正も、どうした?と訊ねる。まったく短い言葉であったが意図を覚ったようで、幸村はのろのろと腕を持ち上げて、清正へと手を伸ばした。すっと伸びた長い指は一見整っているが、その手の平にはまめが潰れて固くなってしまった痕があって、案外に固い。
「今まで、こんなことを思うことはなかったのですが、」
独り言のような音量だったが、閉鎖された空間ということも手伝って、清正にだけははっきりと届いた。
「あなたはどんな顔をなさっているのだろう、と、ふと気になったのです」
そして、
「触れてもいいですか」
と、幸村は窺うように清正の顔を覗き込んだ。もちろん見えているわけではないだろうが、見ることの出来ない彼の眼が、ねだるようにこちらを見つめているような気がした。返事の代わりに両の手首を掴んで、彼の手の平で己の顔を包むように押し付ける。正則と同じ方法しか思い浮かばなかった自分が、少し悔しかったが。
幸村は躊躇いがちに指先で肌をなぞっていたが、段々と大胆になったのか、開き直ったのか、ここが鼻、ここが耳、と一つ一つ呟きながら、形を確認するようにゆっくりと輪郭を撫でて行く。発熱のせいで指先も熱く、ああこの顔に触れているのは、間違いなく幸村の指なのだと清正は思った。その手付きは丁寧であったものの、どこか子どもの悪戯心も感じさせた。時折、楽しそうにくすくすと幸村が控えめに笑みを零すからだろうか。
清正は幸村の好きなようにさせていたが、気付いた時には己も幸村に手を伸ばしていた。無意識であった。あるいは幸村に触発されたのかもしれない。元々、じっと待っていることは苦手なのだ。幸村も流石に驚いて、楽しげに触れていたその手の動きを止めてしまった。そこでようやく、己の指先が彼の目蓋を布越しに触れたことに気付いたのだ。その傷痕を見られることを極端に嫌う幸村だ。触れられることだってそうに違いない。なんと無神経なことをしてしまったのだ、と後悔しながら、
「悪い」
と、きまり悪く手を引っ込めれば、幸村は清正の顔を両の手の平で包み込み、ゆっくりと首を振った。
「構いません」
「だが、」
「清正どのでしたら、構いません」
まるで彼の特別になったかのような、そんな心地であった。目蓋と言わず、顔中を撫でて、髪をぐしゃぐしゃに掻き回してやりたかったが、けれども清正は、浮かれていることを必死になって押し込めた。礼を言う代わりにもう一度だけ彼の目蓋を布の上からなぞる。ぴくりと清正の指に反応して目蓋が震えたような気がしたが、それを確かめる術はなかった。
清正の手が離れていくのを感じ取ったのだろう、幸村も清正の顔から手を離したが、清正も幸村も、隣り合った位置から動くことはなかった。その晩、どちらからともなく肩を寄せ合って、相手に頭を預けるようにして眠りについたのだった。