しとしとと降る雨の音で、清正は目を覚ました。幸村は清正のすぐ隣りで、珍しく寝息を立てていた。頬に触れれば、まだ熱は高かったが、昨日よりは安定しているのか、彼の呼吸は穏やかだった。
 いつ頃降り出したのか、吹き込む風はひやりと冷たく、気温をぐっと下げていた。清正ですら少し肌寒く感じた程だ、幸村の身体には毒だろう。邪魔になるものは全て置いてきてしまっており、羽織って暖を取れるものは何もなかった。せめて火でも焚けばマシになるだろうか、と清正が幸村の隣りから腰を上げる。お互い少しずつ体重を預け合っており、清正の動きがそのまま幸村に伝わり、幸村も起きてしまったようだ。
「おはよう。寒くないか?火、付けるからちょっと待てくれ」
「おはようございます。……そうですね、少し、寒いですね」
 幸村の少し、は、とても、だとか、物凄く、に近い気がして、清正は集めておいた木片に火を点して、大きな焚き火を作った。火が安定したことを確認して、清正は再び幸村の隣りに腰を下ろした。まるで最初からそこが清正の定位置であったかのように、清正はもとより、幸村もそれを自然と受け入れていた。

 腹のたしにもならない食事を終える。少ない栄養を必死になって消化しようとしているのか、食事の直後が一番腹が活発に動いているような気がした。既に空腹の感覚も分からなくなっていたが、意志に反して腹が鳴るのは仕方がないことだった。
「…お腹空きましたね」
 清正を気遣っての言葉だろう。今更恥かしいとは思わなかったが、幸村の気配りが嬉しくて、その言葉尻を捕まえた。
「ああ、そうだな」
「もし助かったら、なにを一番に食べたいですか?」
「もし、じゃない。助かるに決まってるだろ」
 そう言って、自然と幸村の髪をくしゃりと一撫でする。もう清正も己の無意識に驚かなかったし、幸村もまた背を震わせ逃げる素振りを見せることはなかった。そうなることを自然と覚っていた。受け入れていた。自分たちは誰よりも何よりも近くにいて、それを嬉しいと思うようになっていた。
「そうだな、やっぱり、―――茶漬けがいいな」
 おねね様の、とは心の中で付け足しておいた。流石にそこまでは読めなかっただろうが、幸村は
「おいしいですもんね、お茶漬け。わたしも好きです」
 と、笑っていた。いつもの調子で会話をしているが、幸村の赤い頬はいかにも苦しげだった。どうにもしてやれない自分がもどかしい。熱を測るふりをして、頬に触れる。熱い。清正の指の温度が気持ち良いのか、幸村は半ば清正にもたれかかっている。
「お前は?」
「?」
「助かったら、なに食いたい?」
 幸村は少しだけ考える素振りをする。別に思いつかないならそれでいいぞ、と言えば、きっと呆れられると思いますが、と前振りをして、それを口にした。
「お酒が飲みたいです。清酒がいいですね、焼酎でもいいです。出来れば、うんと強いものが」
 熱に浮かされながら、酒が飲みたいとは。思えば、幸村と酒を酌み交わしたことはなかった。常に背筋を凛と伸ばしている男だから、酒でそれが緩むのを好まないのだと勝手に思っていたが、そうではないらしい。もしくは、酒の力を借りて力を抜いているのか。三成は酒を受け付けない体質で、聞いたわけではないのに、幸村もそうなのだと思い込んでいた。
「…好きなのか?」
「はい」
「強いのか?」
「どうでしょう?人並みだと思いますよ。ただ、おいしいご飯も嬉しいですけど、おいしいお酒の方が、わたしは幸せだなあって感じます。子どもの頃は、兄と一緒にこっそり父の秘蔵の酒を舐めたりして、酒の味を早々と覚えてしまいましたから」
 清正だったら、断然うまい飯を取るが、幸村はそうではないらしい。清正も決して弱くはないが、そうこだわって飲む方ではない。なければないで困らないし、付き合いで飲むことがほとんどだ。正則が何かと屋敷に持ち込むせいで、酒の量は充実しているが、自分から開けたことはなかった。
 兄、と幸村が口にして、ようやく己は幸村のことを何も知らないのだと気付いた。思わず、
「兄が居るのか」
 と、呟けば、
「姉も弟も居ますよ。随分と会っていませんが」
 そう言って、口許を綻ばせた。やはり自分のことを話すのは苦手なのか、幸村は再び話題を戻した。かわされたかな、と勘繰るのは考えすぎだろうか。
「清正どのは、強そうですね。なんとなく、ですけど」
「まあ弱くはないが、それこそ人並みだ。すごさで言えば、三成と正則だな。三成は面白い程弱いし、正則は厄介な程よく飲む。正則は普段から声がでかいが、酒が入るともう手に負えん。はた迷惑な絡み酒で、ぐったりしてる三成に、俺の酒が飲めねぇのかーって無理矢理飲ませてる光景は、さながら地獄絵図だな」
 宴会の度に繰り返される大惨事は、すぐに思い描ける程に恒例になっていた。幸村もその姿を想像したのか、楽しそうですね、と笑みを浮かべている。

 芽生えた思いつきは咄嗟のものだったが、案外に名案に思えた。この期に及んで、助からないかもしれない、と諦めている幸村を少しでも前向きに出来たら、と考えてのことだったが、口に出してしまえば良いこと尽くめのように思えた。酒が入れば彼の口も軽くなって、根掘り葉掘りと問い詰めるにはもってこいではないか。
「助かったら、俺がうんとうまい酒を飲ましてやるよ」
「清正どのが?」
「ああ。浴びる程用意してやる。朝まで酒盛りだ」
「それは、楽しみですね」
 本当にそう思ってくれているようで、幸村の声が喜色で輝く。いいなと思った。名案に、というよりは、喜んでいる幸村に、だが。
「約束だな」
「やくそく、」
 幸村がどこか舌足らずに繰り返す。少しだけ声が翳ったように聞こえた。言葉の選択を間違えたかもしれない。思い返せば初めて会った日も、清正が口を滑らせた"約束"という言葉に戸惑っていたように感じられた。その言葉に苦い思い出があるのか、単純に約束をすることが嫌いなのか。
「…嫌か?」
「まさか。この世にはこんな嬉しい約束もあるんだなあと、感心していただけです」
 幸村は誤魔化すように笑って、守れるといいですね、とまるで人事のように呟いた。この男は本当に、生きたい、という願望が薄い。もののふたれと生きていたのであれば、もっと生にしがみ付けばいいのに。死んでたまるか、と、周りを押し退ける程の気概があればいいのに。幸村は己を優先することを知らないのだ。ああそれならば、己が何よりも彼を優先してやればいいのか。
「守るんだよ。俺が言うんだから絶対だ。お前こそ覚悟しとけよ。追い払ったりするなよ。もう飲めませんって言わせてやるからな」
「それはますます、楽しみですね」
 そう呟いた声は嬉しそうに弾んでいたが、彼が心から信じていないことは明白だった。そう簡単にお前の思惑通りにしてやるかよ、と幸村に気迫をぶつける代わりに、幸村の頭を掻き回した。喋り過ぎたようだ。幸村の息が上がっている。少し休め、と汗で張り付いている前髪をかき上げながら囁けば、幸村も自覚していたようで、はい、と身体の力を抜いた。


 外は雨音がするばかりで、全くの無音だった。昨日まで、中まで響いていた蝉の鳴き声や風が木々を揺らす音、鳥のはばたきや獣の気配、そういったものを雨音が消してしまっていた。時々ぱちぱちと火の中で木がはぜる音がするだけで、あとは二人が生きている音だけだ。呼吸の音、触れ合ったところから伝わる相手の鼓動。世界に取り残されてしまったような錯覚に陥るのも、仕方がないだろう。幸村の体温が、この世界で最後の存在に感じられた。触れ合っている部分から伝わる温度、呼吸が、一番の生きている証だ。人の中に流れる音は心地良く、眠くはなくとも目蓋を下ろしていた。そこは、音だけの世界だ。幸村が常に感じている世界だ。

 どれだけそうしていたのか。時間の流れがひどく緩慢で、感覚が麻痺していた。息苦しくはない沈黙を破ったのは幸村だったが、思っている以上に時間は経っていたのかもしれない。幸村に苦しげな様子はなかった。
「なんだか、世界にわたしたちだけになってしまったような、そんな気がします」
「奇遇だな。俺もそう思ってたところだ」
「わたしは運が良いですね」
 幸村は、熱で赤い頬をそのままに、機嫌の良い様子でふふ、と笑った。
「隣りにいるのが、清正どのですから」
 幸村はそう嬉しげに言うだけ言って、少し寝ます、とすとんと眠りに落ちた。清正は半ば呆けながら、それでも彼が寒くないように身体を密着させて、身体をもたれさせるように引き寄せた。


 二人きりの世界は、とてもゆっくりと時間が流れていた。間違いなくこの瞬間、隣りで寝息を立てている幸村が、この世で唯一のものだった。母の温もりを求める幼子のように、彼の隣りに寄り添うことが、あまりにも自然なことだった。子どもが母の手に縋るのは、世界で一番はっきりとした標だからなのかもしれない。
(このままこうして死んでしまっても、)
 自分は悔やむことが出来るだろうか。清正は肩に乗っている幸村の頭の、泥や野宿で汚れてしまった旋毛に目をやりながら、ふと考える。幸村だったら、悔しいと言うだろうか。無念だと叫ぶだろうか。一昨日の幸村だったら、そうだったかもしれない。戦場とは全く関係のない場で死ぬなど、彼は考えたこともなかっただろう。けれど、今は?今だったら、どうだろう。もしこのまま、誰の助けも来なかったら?このまま洞窟が崩れて生き埋めになってしまったら?幸村はそれでも、悔しいと嘆くだろうか。無念だ、犬死だ、この世には神も仏もない、と恨み言を吐くだろうか。
(ああいけない、彼と約束をしたばかりだと言うのに)


 うとうとしていたのか、ぼんやりしていたのか、自分でもその境界は曖昧だった。幸村が僅かに身じろぎをした。清正同様、幸村も人の体温に安心しているのかもしれないが、流石にこの体勢では眠りにくかったのだろう。
「そろそろ雨が止みそうですね」
 欠伸を噛み殺しながら清正の肩から頭を上げ、幸村は外へと顔を向けた。彼に言われて、雨音が弱まっていることに気付いた。昨日までの自分だったら、彼に言われるまでもなく気付いていただろうに、やはり少しずつ疲労がたまっているようだ。そうだな、と相槌を打ちながらも、清正は外の様子を確かめに腰を上げることはなかった。母の腕に抱かれているかのようで、この空間は心地良く、離れがたかった。

 程なく雨は上がったが、吹き込む風は相変わらず冷たかった。それを理由にして、二人は離れようとしなかった。言葉にしたわけではない。視線で会話が出来るわけでもない。ただ、この瞬間、この空間、自分たちの抱いている想いは同じだと信じていた。

 清正の指先が幸村の指にぶつかる。引っ込めることも出来ただろうに、どちらもそうしなかった。もう一方の手で、幸村の目蓋を撫でた。感触は布に阻まれて分からない。薄っすら温度を感じた。幸村も今度は驚かずに、清正の指先が何度もさするのを享受していた。
 どれ程そうしていたのか。幸村は全くの従順で、清正の行動に一切の抵抗をしなかった。或いは、彼自身、その弱味を誰かにさらすことを望んでいたのかもしれない。清正自身、幸村が拒絶する可能性すら考えていなかった。幸村もまた、同じだろう。体温を分け合うように、伝え合うように、この行為は意味のあるものではあったが、二人にしか意味の見出せぬものでもあった。
 正直飽きることはなかったが、まるで猫が喉を鳴らすように、あの隙のない幸村が己を差し出している状況に満足して、清正はそっと指を離した。けれども、引き止めるように、幸村が清正の腕を掴んだ。この光景をどこか遠くで眺めている自分が、相変わらず器用なものだな、と彼の空間把握能力に感心する。
「幸村?」
「……」
 幸村は何か言いたげに僅かに口を開閉させたり、視線をさ迷わせるように首を揺らしている。言いにくいことなら無理するな、と言ってやりたかったが、迷いのある彼の様子とは裏腹に、清正の手首を掴む指の力は強かった。熱い指先が彼の焦燥を伝えてくる。言いたい、言ってしまいたい、たとえ後悔してもあなたにだけは言っておきたい。幸村は強く清正の手首を握り締めた。
「清正どの、わたしは―――……」
 意を決して吐き出された声は、けれども彼自身の行動によって阻まれた。清正の顔を真摯なまでに見つめていた幸村は、弾かれたかのように洞窟の入り口へと顔を向けて、耳を澄ませるように手を添えた。重なっていた手が離れて行き、残念だな、と思った。
「幸村?」
 指笛のように人差し指を丸めて、音のない笛を吹く幸村の名を呼べば、外に視線を向けたまま、
「外から声が聞こえたような気がします。助けが来たのかもしれません。今、忍びに聞こえる音を吹きました。近くにいるなら、この音に反応するはずです」
 と、早口に弾んだ声で言った。清正もその調子につられるように、少し興奮気味に立ち上がった。
「本当か!見て来る」
 その勢いのまま駆け出そうとしたのだが、幸村の指が未だに清正の手首を掴んでいることに気付いた。幸村自身、無意識なのかもしれない。腕を引けば、離すまいと更に力が強くなった。行かないでと縋られているようで悪い気はしなかったが、彼を引き摺って外に出るわけにもいかない。内心渋々だったが、仕方なくそれを指摘した。
「幸村、悪いがとりあえず離してくれないか。話なら、後でいくらでも聞いてやる」
 え?と幸村は一瞬首を傾げたが、すぐに清正の手首を握り締めていることに気付いたようで、少し慌てた様子で、
「す、すみません。よろしくお願いします」
 と、手を離した。ああ勿体ないな、と思ったものの、来ているかもしれない助けを無視するわけにもいかず、清正は久方ぶりに外へと顔を出した。










  

13/09/04