その日は夕暮れと共に宿をとった。宿と言っても、農作業の傍らに営んでいるような小さな宿屋だ。風呂も一人用、客間も少ない。それでも、屋根のある場所で休めることがありがたい。布団を二人分敷いてしまえば、ほとんど足の踏み場もないような手狭な部屋だが、掃除は行き届いているらしくきれいだった。体力のある幸村と、人一倍貧弱な三成とでは比較にもならないが、部屋に着くなり倒れ込むようにして腰掛けた三成は、正直、もうへろへろだった。戦の折、何度も遠征を体験している三成だが、ここのところの不摂生が祟ったようだ。
「一休みしたら、風呂を使わせてもらいましょう。奥さんに頼んできますね。」
「あとでいいだろう。お前も一旦のんびりしたらどうだ?」
「すぐ戻りますよ。三成どのは先に寛いでいてください。」
幸村は荷物だけを部屋に置いて、軽やかな足取りで部屋を出て行った。残された三成は、幸村の後ろ姿を恨みがましく見つめながら、深々とため息をついたのだった。とりあえず、足手まといならないようにしなければ。
大の字になって寝転べば、すぐに睡魔がやってきた。旅の為に一刻ほど睡眠を摂った程度。連日の睡眠不足のせいで、目蓋が段々と重くなってくる。考えなければならないことはたくさんあるのに、ああ、でも、それは己一人で決めることではなく、幸村と相談しなければ、とぐるぐると頭の中で言葉が回っている。例えば、これから、自分たちはどうするべきなのか、どうしたいのか、などなど。無計画、身一つで飛び出してしまった。もちろん後悔などはしていないが、つい気を抜くと、城はどうなっているだろうか、と意識がそちらへと向かってしまう。自分たちはそういう、身分だとか地位だとか、自分たちを縛るものを捨ててきたはずなのに、未練がましく縋っているような気がする。もしくは、吹っ切れていないのか。
ぐるぐると思考が回る。既にまともに考えられなくなっている。三成は抵抗をやめて、意識を手放したのだった。
どれぐらい眠っていたのだろうか。身体のだるさはまだ残っていたが、頭はすっきりとしていた。三成がのそのそと身体を起こせば、幸村は頬杖をついて開けた窓から外を眺めていた。月でも出ているのだろうか、幸村の視線に揺らぎはない。
疲れている。いいや、違う。感情を殺して、わき目も振らずに月を眺めている幸村の横顔に浮かんでいる感情は、不安、ではないだろうか。三成は咄嗟にかける言葉を失ったが、身じろぎしたせいで物音が狭い部屋に響いてしまった。当然幸村も気付き、振り返ると同時に笑みを貼り付けた。幸村の笑顔をたくさん見てきた三成だ。その笑みに隠された感情を瞬時に覚る。彼は先程の不安の隠したいのだ。三成にばれないように、三成のおもりにならないように。
「起きましたか?お風呂はどうします?客はわたし達だけなので、好きに使って良いそうですけど、」
「お前は?」
「わたしは三成どのの後でいいですから。」
幸村はそう言って、お先にどうぞ、と三成を促す。どうも空気が重い。三成の勘違いだろうか。幸村は幸村で触れて欲しくなさそうに、素知らぬ顔をしている。
「そうか。では行って来ようかな。」
「はい、どうぞ。場所は突き当たりの階段を降りて、右手ですよ。」
「一緒にどうだ?」
場の空気を何とか和ませようとした三成の精一杯の冗談に、幸村は目を見開いて驚いていたが、すぐに冗談だと気付いたようだ。
「残念ながら、一人用ですので。」
笑いながら、そう言った。三成としては、冗談のつもりだが、彼が思うような十割方の冗談ではなかったから、幸村のさっぱりとした物言いにちょっぴり寂しくなった。
「うん、そうだな、非常に残念だ。」
三成は恋人としての幸村に対し、不満一つすら不義だと思っている。彼を全面から信頼し信頼され、寄り添い合って互いを愛することこそが正しい形だと思っている。だからこそ、彼に不満を持つことはいけないことだと思っている。分かっている。だが、あえて、あえて一つだけ愚痴をこぼすのであれば、彼のつれないまでに鈍いところが挙げられる。具体的に言おう。彼は夜の営みにほとんど執着がない。いつも三成の方から誘わねば、隣り合って眠っていても、本当に一緒に寝るだけで終わってしまう。それに、三成から誘うにしても、雰囲気をいかに作り出そうともほとんどが不発に終わってしまう。一番手っ取り早いのは、共に寝床につき、幸村に覆い被さることだ。そこでようやく、ああ今日の三成どのは、わたしとそういうことがしたいのだ、と理解する。いい雰囲気、などあったものではない。
そういうわけであるから、今現在の状況に三成は悶々としていた。狭い部屋に隣り合って敷かれた布団。手を伸ばせた届く距離には、互いの想いを知り合う者同士。これで何かない方がおかしいのだが、幸村にはそんな素振り一つない。三成が折角布団の上で待っていたというのに、湯浴みを済ませた幸村は、身体のほでりがおさまれば、お休みなさいごろりと三成が陣取っていない方の布団に潜り込んでしまった。一連の滑らか流れは、まるで違和感がなかった、不自然な点は一つもなかった!だからだろう、三成はお休み、と彼に倣って身体を横たえてみたのだが、じわじわとあれ?おかしくないか?という思いが広がり、しまいには幸村の性欲のなさを恨む始末だ。
「幸村、」
悔し紛れに彼の名を呼んでみたものの、返事はない。幸村の寝つきの良さは折り紙つきだ。しかしここで引き下がっては男が泣く。関ヶ原の勝利後、妙な自信がついている三成だ。彼の攻撃に負けてはいられぬ!ともう一度、先程よりもはっきりとした声で彼の名を呼んだ。
これには幸村も反応せずにはいられなかったようで(いや、狸寝入りをしていたわけではないだろうが)、ごろりとこちらに顔を向けて(あの男は想い人にあろうことか背を向けて寝ていたのだ!)、どうしました眠れませんか?と舌足らずに言った。おそらく彼は夢の世界に爪先を突っ込んでいたに違いない。
「ああ、なぁ幸村、そちらに行ってもいいだろうか?」
「こんな手狭な布団に入らずとも良いではありませんか?それに、今寝ておきませぬと、明日が大変ですよ。」
にこりと微笑むと、三成の意味深な言葉を見事に流して目蓋を下ろした。ああくそっと三成は彼が完全に眠ってしまわないように、咄嗟に手を伸ばした。幸村の頬に触れる。いっそもう少し距離があれば、こうして未練がましく彼の頬に手を寄せたりしなかったのに。こうなってしまった三成にとっては、この手狭な部屋すら小憎たらしく映る。
三成の指先が冷たかったのだろうか、身じろぎをして眉間に一瞬皺を寄せた。少し手の位置をずらして幸村の唇に触れさせれば、彼の生温い吐息が親指の先を掠めた。
「ゆ きむら、」
もう我慢が出来ぬと、三成は手を添えたまま身体を寄せて、彼の唇に食い付いた。僅かに開かれた唇を舐めたり甘噛みしていたら、幸村も観念したのか、深い深いため息がその口から零れた。と同時に口を開かれ、三成を誘う赤い舌が姿を現す。三成はすかさず己の舌を彼の咥内に捻じ込んだ。添えるだけだった手は、がっちりと幸村の頭を固定している。
そうして互いの息が乱れるまで口を吸い合い、ようやく口を離した。二人を結ぶ銀色の糸を視線で追えば、頬を赤く染めた幸村と目が合った。恥ずかしそうに顔を伏せる様に三成の胸は早鐘を打つ。いつまで経っても初心な様子がまた良いのだ。続きをしようと幸村に覆い被さる。が、しかし、幸村は合わせ目をしっかりと握り締めていてそこから先に進めない。
「幸村、」
「あ、あの!三成どの、」
「いやか?」
「いやと言いますか、いえ、いや、ですけど。」
「なぜだ。」
ぐいぐいと迫ってくる三成に驚いているようで、幸村は逃げ腰だ。我ながら必死すぎるとは思うが、幸村の態度はどうしても納得できない。
「ここはわたし達の屋敷ではありません。」
「知っている。」
「宿屋、です。」
「それも知っている。」
どうして分かってくれないんです?!とでも言いたげな幸村の目尻には涙が薄っすらと浮かんでいる。おびえた様も良いなぁなどと不埒なことを考えていると、幸村が近いです!と強引に三成の身体を押した。
「こんな小さな宿屋で、そんなこと、」
「何だ、声やら音やらが漏れてしまうのが嫌なのか?そんなこと心配せずとも、商売がら理解はしてもらえるだろう。」
「三成どのなんて、」
知りません!!と叫び声が飛ぶのと、三成の目の前で星が瞬くのとは同時であった。幸村に殴られ、不覚にも気を失った三成は、そのまま朝を迎えたのだった。
09/01/25