突然に振り出した雨に、二人は慌てて寺へと続く階段を駆け上った。まず幸村が先を行き、繋がった手が三成の足を急かすように引っ張り上げる。門の屋根に到達するまでに三成の息は上がっていたが、幸村はけろりとした顔で三成の頬に飛んだ雨の雫をぬぐっている。そんなことしなくてもいい、と言う前に、幸村は雨を吸ってびっしょりと重みを持った上着を翻す。かぶった笠の水気を軽く払って、三成をその場に残し境内へ消えて行った。雨音に負けないように大声を張り上げて、寺の者を呼んでいる。こういうところの気配りは、三成に真似できない。三成が行動に起こす前に、幸村が先手先手で甲斐甲斐しく世話を焼いてしまうのだ。三成は呼吸を落ち着かせながら、幸村の後ろ姿をじっと見守った。しばらくして、傘を片手に幸村が戻ってきた。まだ若い雲水を伴っている。
「陽も落ちてきましたし、今日はこちらで泊めて頂けるそうです。」
「そうか。感謝する。」
 三成はそう言い、雲水に向かって軽く首を揺らした。いささか横柄な態度に見える三成にも不快そうな顔をすることなく、雲水はにこやかに、いいえ、と顔を綻ばせた。
 二人そろって濡れ鼠という風体だが、これ以上雨にさらされるのは勘弁願いたい。よほど慌てていたのか、僅かな距離だからなのか、幸村の手には一本の傘しか握られておらず、男二人には少々手狭だ。幸村は当然のよう三成の方に傘を傾けながら、さぁ行きましょうと三成を促す。三成はそんな幸村の心遣いにむず痒さを覚えて、強引に幸村の手から傘を引ったくり、幸村がこれ以上雨に濡れぬように傾斜を作る。幸村が慌てて奪い返そうとしたが、三成はぎゅうと柄を握り締めて放さない。
「三成どの、」
 と三成にしか届かぬ小さな声で抗議を上げたが、三成は彼の顔を見上げながら、
「俺のわがままだ、気にするな。」
 と取り合わなかった。幸村も三成の気持ちが分かるのか、軽くため息をついて分かりました、と苦笑した。幸村が仕方がないなぁと微笑む様に、ついうっかりと彼の顔に手を伸ばしかけたが、そんな二人の様子を見守っていた雲水が、
「仲の良いことで。」
 と至極真面目な声で、判断に困る言葉を投げかけたものだから、三成はさっと手を引っ込めなければならなかった。見れば、幸村も三成から視線をそらしている。さぁ早く行きましょう、風邪をひいてしまいますよ、と背を押す声に頷きながら、二人は境内を進むのだった。


 二人が城を出て、一月が経とうとしていた。未だ追っ手の気配もなく、のんびりとした旅路をゆるゆると進んでいる状態だ。むしろ互いに、こんなにものんびりとしていて良いのだろうか、と言葉にはしないが疑念を持ち始めている。未だ畿内を出ていないのだ。馬を調達する金がないわけでもないのに、二人はのそのそとした徒歩の旅を続けている。
 三成は手足を投げ出した格好のまま、開け放たれた戸から雨が降りしきる景色をじっと見つめている。通り雨だ、じきにあがるだろう。幸村と言えば、湯をつかい身体を温めるや否や、寺の者の手伝いへと走って行った。決して大きな寺ではないが、住み込みの坊主の少なさを聞くや、人手が足りないだろうと寺の奥へと消えて行ったのだ。三成には彼を追い掛けて寺の者たちの手伝いをする程の体力もない。手持ち無沙汰になってしまった。そんな客人を見るに見兼ねたのか、寺の住職が三成のもとへ顔を出した。温和そうな顔をしている。僅かな人数でもどうにか寺の体裁を保っていられるのも、この住職の人柄ゆえだろう。三成はそんなことを考えつつ、姿勢を正して頭を垂れた。今の己は石田三成ではなく、ただのしがない旅人なのだ。差し出された湯呑を仰々しく受け取った三成は、まず一口、茶を口に含んだ。
「お連れ様は、ほんによぅ働きますなぁ。」
 住職は三成の隣りに腰掛けて、そう口を開いた。聞けば、寺の掃除を手伝った後、夕餉の準備にも加わるそうだ。三成には到底真似できるものではない。
「お二人はこれからどちらへ?」
「特に決めていない。元々、目的あっての旅ではない。船で四国へ行くのも悪くはないが。」
「迷うておられるのですか?」
 三成は一瞬、呼吸を止めて住職の顔を覗き見た。しかし相手は三成の視線に気付いているだろうに、知らん顔をして茶を啜っていた。
「何故、そう思う。」
「勘違いであれば良いのですが、拙僧の目には、お二人があまりに不安定に映りまして。地に足が付いておりませぬ。なに、人はそれぞれ、不安を抱えている生き物ですが、あなた方は根っこの部分が定まっておりませぬゆえ。何か足元を脅かすような、そんな不安をお抱えなのではと思いまして。」
「僧侶というものは、人の心を読めるのか。」
「まさか。修行の賜物、でございます。長生きをしておれば、様々な人と接する機会もたんと巡ってまいりますから。」
 あくまで穏やかに、住職は言葉を紡ぐ。以前の三成ならば、こうして他人の口から告げられる、己のことなど黙って聞いていることすらできなかったろうに、人間とは変わるものだ。
「特に、あなたのお連れ様は、非常に危うい。生きるにおいが薄いと申しましょうか、生きることへの執着が薄い。」
「……。」
「確かに、ああいうお人は稀に居なさる。何をやっていても、どこに存在していても、己という存在が浮いているように思えて仕方がない。生きていることそのものが不安で堪らぬのだろう。あなた様のお連れは、気丈にも隠しておられるが、」
「知っている。」
 三成が住職の言葉を遮るように声を発せば、左様で、と気にした様子もなく茶を啜った。視線のやり場に困って、三成は庭へと視線を向ける。雨音が弱くなってきた。そろそろ上がるだろうか。
 そもそも三成は、この住職に指摘されるでもなく、彼の不安定さを知っている。戦の強さもしたたかさも、十分に知っている。それだけの時間を共にしてきた自信が三成にはあった。だからこそ、幸村の危うさに怯えているところもあるのだ。彼は時々、どこか遠くを眺めては心を飛ばしている。ぼんやりと、今ではないどこかへと想いを馳せている。声をかけなければ、そのまま消えてしまうのではないかと思う程だ。三成は、彼が抱えている不安の中身を知っている。知っているが、共感することは叶わぬだろう。三成と彼とでは違い過ぎたのだ。第一、彼の苦しみや不安は、共感者を得ることで解消される類ではない。おれはお前の気持ちが良く分かる。自分のことのように分かるのだ。そう言えたとしても、彼の不安を煽るだけであって、何一つ解決しない。

「年長者としての忠告ですので、あなたには煩わしいかもしれませんが、」
 住職はそう言いながら立ち上がった。庭を見れば先程の激しい雨が嘘のように、燦々と陽が照り付けている。陽の光の眩しさに、思わず三成は目を細めた。
「あなたも気付いておられるのなら、尚更、あなたがしっかりと繋ぎとめておくべきでしょう。」
 何を言われたのか、瞬時に理解できなかった三成だが、むくむくと負けん気が膨らんできて、つい強い口調で、
「無論だっ」
 と返してしまった。その強がりにしか見えない意気込みに住職は満足したのか、それならば結構、と笑みを作ると、さっさと廊下の曲がり角へ消えて行った。あまりに呆気なく居なくなってしまった住職に、まんまと毒気を抜かれた三成は、しばらくの間、ぽかんと住職がいなくなった廊下の先を見つめているのだった。


 質素な夕餉を摂り、今日は早めの就寝となった。働きまわったというのに、幸村は疲れた素振りすら見せず、むしろ三成に労わりの言葉をかけた程だ。流石に三成も、彼の気遣いには呆れてしまった。そういう性質だと言ってしまえばそれだけだが、身体を動かしていることが全く苦にならぬ幸村に、ただただ感心するばかりだ。
「そう言えば、近くの村では祭りが行われているそうですよ。」
 枕元の灯りを吹き消しながら、幸村はそうこぼした。一瞬にして視界は闇で覆われたが、じっと一点を見つめていると、次第に目が闇の中の光をうまく拾って、物の輪郭程度は把握できるようになる。三成がどうにか慣れてきた目で隣りを見やると、幸村は例の如く布団の中に身を横たえていた(残念ながら、幸村がこちらを見ているかどうかまでは判断つかなかった)。
「行ってみるか?」
「はい、是非。ここ数年は豊作らしく、祭りも大盛りあがりだとか。」
「そうか。」
「三成どの、」
「何だ?」
「…いえ、おやすみなさい。」
 確かに幸村は、何か言いたげに三成の名を呼んだはずなのだが、彼の口からその先が語られることはなかった。三成は咄嗟の追求の一言が出せず、ああ、と短く彼に返事をすることしかできなかったのだった。















  

09/03/22