次の日、寺を出、町へと訪れた。話に聞いていた通り、まだ昼間だというのに、出店が所狭しと並んでいる。道には人があふれ、あの中へと一歩踏み出すには中々勇気のいるところだ。三成は思わず顔を引き攣らせ、流石の幸村も人の多さに苦笑していた。
「幸村、」
「はい?」
「手、」
「?」
三成は幸村よりも一歩前に立っている。振り返らずに、腕だけを幸村に差し出した。
「はぐれるかもしれない。手を、」
その先は恥ずかしくて口に出来なかったが、幸村は三成の言わんとしていることに気付いてくれたようで、はい、と返事をすると同時に、三成が差し出した手に、己のそれを絡めてきた。人だかりの中では、男二人が手を繋いでいても目立たないだろう。
一通り出店を見て回った二人は、人ごみを離れた場所で休憩していた。せり出た石が、座るには丁度良い高さだ。人ごみに酔った三成はいささか気疲れしたようでぐったりとしていたが、幸村は元気そのもので、三成の額の汗を拭ったり背中をさすったりと忙しい。時折吹く風は祭りの賑やかさと、色々な食べ物が交じり合ったにおいを運んだが、それよりも柔らかな手付きが心地良かった。
「元気な町ですね。」
「ああ。ここ数年は飢饉もないからな。」
「戦も、終わりましたし。」
自分たちの立場を思い出させるような言葉を避けていた三成は、はっと幸村を見上げた。幸村は懐かしいような、寂しいような笑顔で、三成をじっと見つめ返した。三成は、この幸村の眸に弱い。澄んだ眸が三成の不安や焦りを見透かしているようで、けれどもそれが不快ではないのは、幸村がそういう三成の感情を汲んだ言葉や態度で接してくれるからだ。幸村に甘えている、という自覚が三成にはあった。同時に、どうして自分は幸村のように、想い人の心を見透かすことができぬのかともどかしく思う。
「帰りましょうか。」
幸村ははっきりとそう言った。誘っているわけでも、提案しているわけでもなかった。わたしたちは、もう帰るしか選択肢がないのです。言外にそう言ってはいるものの、決して嘆いているのではなく、当然のことを受け入れているようだった。感情を中々吐露してくれない幸村がもどかしい。
それでも、三成は動かなかった。ただ、動揺は確実に現れていて、幸村の眸を直視出来ずにさっと顔をそむけた。
幸村はもう一度、
「帰りましょう、三成どの。」
と言う。急かしているわけではない。それなのに、三成は胸が苦しくなって痛くなって、幸村にそんなことを言わせてしまったことが悲しくてたまらない。
「、幸村、」
「もう、潮時です。あなただって、分かっているはずです。ここは、わたしたちの居場所ではない。それに、あなたの心はもうここにはありません。城の様子が気になるのでしょう?天下様がどのような政をするのか、それが民にどのような影響を与えるのか、あなたは気になって仕方がないのでしょう?三成どのは、仕事を放り出してのん気に笑っていられるような人ではありません。わたしの好いた方は、そういう頑固なお人なんです。」
「幸村、」
「お互い、分かっていたことです。今回の旅は良い気晴らしになりました。」
ありがとうございました。幸村はそう頭を垂れて立ち上がった。尻を軽くはたいて汚れを落とした幸村は、さぁ、いきましょう、と一歩を踏み出す。三成はぼんやりとその後ろ姿を見つめていたが、数歩進んだところで幸村が振り返って、三成どの、と呼ぶものだから、三成は促されるがままに立ち上がった。幸村はずるい。あんな柔らかな甘やかな声で呼ばれては、彼に続かないわけにはいかないではないか。
城へ戻ると決意した後の幸村の行動は早かった。近くで馬を調達し(当然自分たちが乗るような鍛え抜かれた馬ではなかったが、徒歩での旅より格段に早い)、城に着くまでの数日を想定して念入りに食料を買い込んでいる。路銀は過分に持ってきており、不便するようなことはなかった。それがこういう事態になるとは、と三成は手際の良い幸村の姿を見守りながらも、忌々しく思っていたが、きっと旅に出る前の三成はこういう事態の為に備えてのことだったに違いない。捨てられるものなら、当に捨てている。けれども自分たちはそういう器用ではなく、無神経でも無責任でもなかった。幸村の為のたった一人の存在では居られないのだ。
今日は早めに宿を取った。三成は忙しなく動き回る幸村をただ見つめている。やれ食事の用意が出来た、風呂の準備が寝床の準備が。幸村は一度もこちらを見ない。あの全てを見透かした眸を、こちらに向けやしない。焦っているのだ。三成以上に、幸村は焦っている。気が変わらぬ内に、早く早く!夢のような時間から抜け出せなくなってしまう。幸村は三成にわがままを言わない。縋ることもしない。ただただ、自分の中の衝動が通り過ぎてくれますように、いなくなってくれますようにと、幸村はじっと膝を抱え込んでしまう。
「幸村。」
と呼びつけたが、幸村は掠めるように三成を一瞥しただけで、なにか?と声だけを寄越した。隠し事をしている。三成はその隠し事が何なのかを、知っている。彼は不安で不安でたまらないのに、必死になってそれを隠している。動き回ることで誤魔化そうとしている。
三成はもう一度、「幸村。」と名を呼んで、荷物の整理をしているその手を、後ろから掴んだ。耳元で幸村が息を呑んだ音が聞こえたが、構わず身体を反転させて、己に向き直らせた。幸村は顔を伏せている。目蓋に影を落としている睫が震えていた。
「戦は終わった。長き戦いの世は終わった。」
存じております、と蚊の鳴くような囁きは、密着している三成にだからこそ聞こえた呟きだった。
「俺は、お前の不安を共有することが出来ぬ。そういう性分ではないし、そもそも俺は武働きが苦手だ。先の戦、幸村のような者が俺のそばにいることを嬉しく思った。」
それは…、と幸村が口をはさもうとしたが、三成はその口を封じて、だからこそ、と続きを紡ぐ。
「お前は、己の役目はもう終わったのだと勘違いしている。いいか、勘違いだ。確かに、俺とお前とでは何もかもが違う。そんなこと、分かっていることだ。」
それでも、と三成は言葉を発したが、相応しい台詞を探しているのか、一旦口をつぐんだ。握り締めている腕の拘束が、まるで縋るようにぎゅうと力が強くなってしまって、三成は何故だか泣きそうになってしまった。どうして、この男の生き方はこんなにも切なくて悲しくて、真っ直ぐなのだろうか。
「それでも、俺はわがままを言うぞ。幸村、俺では駄目か?俺のとなりがお前の居場所ではいかぬか?」
まるで哀願するような声だった。みっともない、と三成自身思ったが、それほどまでに切実だったのだ。幸村からの言葉を待つ刹那が永劫のように思えて、三成も顔を伏せた。
「わたし、には、もったいない、おことば、です」
そう言った幸村の声が震えている。三成が視線を落としたその先では、三成と同じように、幸村が三成の裾の端をぎゅうと握り締めている。自分の言葉が相手を傷つけるのではないかと怯え、それでも彼が好きなのだと、共に居たいのだと身の内に燃える熱に焦燥している。思わず、彼の名前を呼んでしまったが、その声とて、幸村同様に震えていた。彼との恋はこんなにも苦しくて切なくて、でもそれ以上に甘やかで優しくてあたたかい。
「お前の不安はちゃんと分かっている。それに対して、俺はあまりにも無力だ。分かっている。十分に十分に分かっている。悲しいことだが、俺たちは共有できるものがそう多くはない。それでも、お前の涙を受け止めるぐらいの度量は持ち合わせているつもりだ。幸村、これは俺の自惚れか?」
ふるふると幸村は首を振った。こぼれた涙がその動きで僅かに散った。拭ってやらねば、と思ったはずなのに、三成の腕は彼を抱き寄せて背を撫で上げていた。幸村の顔が当たった胸の辺りが、彼の涙でじわりと温かな染みを作ったが、三成は頓着しなかった。むしろ、彼の耳元にそっと唇を寄せて、我慢をするな吐き出してしまえ、俺も今にも泣き出しそうだ、と囁けば、添えるだけだった幸村の指が、ぎゅうと三成にしがみ付いてきた。押し殺していた声が嗚咽に変わる。三成は彼が落ち着くまで、そのままの体勢で幸村の背をさすっていたのだった。
10/01/31